2008年08月31日

箸墓古墳

 邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市にある国内最古級といわれている大型前方後円墳の箸墓古墳で、前方部の外側に幅60〜70メートルの周濠が造られていた可能性が高いことが、同市教委の調査で明らかになった。
 今回発見された周濠の規模は、これまで想定されていた予想幅の2倍超であり、被葬者の強大な権力を示すものとみられている。

 ちなみに箸墓古墳では過去の調査でも周濠の一部が見つかっており、これまで周濠の幅について前方部は約30メートル、後円部は約50メートルと推定していたのだが、今回の発見でそうした推定も大きく変わることになった。
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2008年07月21日

日本最大級の牙

 石川県白山市にある白亜紀前期の地層の赤岩層(約1億3000万年前)からティラノサウルスなどで知られる肉食恐竜のものとみられる、ほぼ完全な形をした8・2センチもある歯の化石が発見された。

 国立科学博物館の研究者たちの話によると、過去、国内で見つかった最大の歯は、熊本県で発見された7・5センチの「ミフネリュウ」の牙で、「完全な形で見つかった標本では国内最大」とみられている。
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2008年06月21日

詩経

 但馬国府跡とされる兵庫県の祢布ヶ森遺跡で、中国最古の詩集「詩経」の注釈書の一節が書かれた9世紀初めごろの木簡が全国で初めて見つかった。
 詩経の注釈書は当時、都の学問・教育機関だった「大学寮」の教科書として使われたとされ、「但馬国府でも注釈書が使用されていた可能性が高い」と推測されている。

 この木簡は長さ39・5センチ、幅10・9センチ、厚さ0・7センチで、「淒寒風也谷風曰東風」などと墨書されていたという。
 詩経にある「淒」や「谷風」の意味を説明する内容で、注釈書「毛詩正義」の記載とほぼ同文だ。
 下に「健児長」と記され、国府を警備していた兵士「健児」が字の練習のために書いた可能性があるという。

 当時、但馬国司だったのは桓武天皇の皇子、良岑安世で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されている。
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2008年03月20日

沖縄の遺族が靖国合祀を拒否へ

 沖縄戦などで死亡した肉親を無断で靖国神社に合祀され、追悼の仕方を自由に決める権利が侵害されたとして、沖縄県内の遺族5人が同神社と国を相手取り、合祀の取り消しと慰謝料計50万円の支払いを求める訴えを那覇地裁に起こした事がわかった。
 遺族等は戦争被害者である住民が戦争加害者と合祀され、祭神とされることは受け入れられないと主張している。

 それだけ沖縄の方々の心の傷が大きいという事を我々はもっと知らなければならない!
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2008年03月15日

親鸞聖人の遺骨

 浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(1173〜1262)のものとみられる遺骨が、同宗本願寺派の常楽寺(常楽台、京都市下京区)が所蔵する親鸞の座像の中から見つかったという。
 昔から寺に言い伝えがあり、根立研介・京都大教授(日本美術史)らが調べたところ、その通り中に納められていたのだそうだ。

 常楽寺は、親鸞聖人の玄孫(孫の孫)の存覚(1290〜1373)が開いたとされる。
 存覚は父の本願寺第3世・覚如から親鸞の遺骨を受け継いだとの記録が残り、寺には骨片を納めた宝塔が伝わっている。
 また遺骨が見つかった親鸞聖人が念仏を唱える姿を彫った木像は江戸中期の作とみられ、寄せ木造りで高さ24.2センチの大きさだという。 
 
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2008年02月03日

正倉院内部公開

 聖武天皇(701〜56)ゆかりの宝物などを納めていた国宝・正倉院の修理に向け、宮内庁は、古代建築の専門家らの現地視察を実施した。
 屋根瓦のふき替えが必要との結論だが、建物の構造強度は十分という見解が示されたという。
 また前日には、一部のテレビ特番などを除いてこれまで非公開だった校倉内が報道各社に初めて公開された。

 日本の建築技術の高さを物語る事実ですね!
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2008年01月06日

姫路城と秀吉

 世界文化遺産であり国宝でもある姫路城の太鼓櫓の窓に、国内に現存する城郭建築では例がない「端喰」という技法を用いた引き戸が使われていることが、専門家の調査で分かった。
 神社本殿など格式の高い建物の扉に多用される技法だそうで、秀吉が築城し、取り壊された旧天守から転用された可能性が高いという。
 城造りの名人だった秀吉が手掛けた姫路城の全容は今も分かっておらず、貴重な歴史資料として注目されているそうだ。
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2007年11月11日

吉村教授が新発見

 日本のエジプト研究の第一人者である吉村教授は、エジプト・カイロ近郊にあるダハシュール北遺跡で、古代エジプト第18〜19王朝時代(約3400年前)の父子とみられる2体のミイラを発見した。
 吉村教授によると10月22日に発掘した同じ墓穴に並んで埋葬されていることから親子と判断したが、エジプトでも前例のないことだという。

 棺の文字から父は建設技師らしく、子ども乳児幼児の間ぐらいだという事が分かったという。
 盗掘の跡は見あたらないが、同時に目立つ副葬品もなかったそうだ。
 事故か伝染病などの理由で同時に死亡したらしく、死因なども今後調べる方針だとしている。
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2007年10月20日

山田寺

 奈良県桜井市にある山田寺跡(7世紀、特別史跡)の出土品から、国内最古級の壁画の断片が含まれていたことが奈良文化財研究所の研究でわかったそうだ。
 12世紀後半に焼失したとみられる金堂(643年創建)に描かれた仏画の一部だったらしい。
 書かれている絵柄は不明だが、同県斑鳩町の創建法隆寺に次ぐ壁画の可能性があると注目されているという。

 見つかった壁画片は大(縦9センチ、横6.8センチ)と小(縦6.3センチ、横6.5センチ)の2点で、彩色はほぼ焼失しているが、色を塗った跡らしい曲線文様などが残っていたそうだ。

 山田寺は、蘇我入鹿の従兄弟の蘇我倉山田石川麻呂が641年に着工したとされている。
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2007年10月04日

卑弥呼の紅

 奈良県桜井市のまき向遺跡で3世紀中頃のものと見られる国内最古の紅花の花粉が見つかった。
 同遺跡は邪馬台国の有力な候補地だが、見つかった紅花は、まさに邪馬台国の卑弥呼の時代と一致し、ますますまき向遺跡が邪馬台国である可能性が高まったと言えるだろう。
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2007年09月19日

17世紀の忘れ物

 京都府教育委員会は、京都市の知恩院集会堂(重要文化財)の天井付近で17世紀前半の両刃のみを発見したと発表した。
 両刃のものは珍しく、全国でも数例しか発見例がないという。
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2007年09月18日

親鸞

 浄土真宗本願寺派寺院の常楽台(京都市下京区)が所蔵する肖像画「親鸞聖人影像(花の御影)」の修復で「親鸞聖人の遺骨を宝塔に納めた」と記した墨書が見つかった。
 寺に伝わる金銅製宝塔にある骨片が、没後745年になる真宗の開祖親鸞聖人の遺骨であることを裏付けるという。
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2007年09月14日

継体天皇の関係者か

 滋賀県高島市にある田中古墳群の一つ、36号墳(6世紀後半の円墳)から、遺体を安置する玄室の奥に別の空間(奥室)をもつ特異な形の横穴式石室が見つかったと、発掘調査した市教委が発表した。
 奥室がある横穴式石室は全国でも例がないという。
 馬具など副葬品が出土したほか、古墳群の中心部に継体天皇(6世紀初頭の在位)の父の陵墓とされる田中王塚古墳があることなどから、市教委は「継体天皇一族に仕えた重臣の墓ではないか」とみている。
  
 36号墳は直径24メートル、高さ4メートルで、石室は花崗岩を積み上げて構築され、天井と東側の壁面以外はほぼ原形をとどめていた。
 奥室は、玄室(長さ3.4メートル、幅1.9メートル)のさらに奥で見つかった。
 長さ約1.1メートルで、幅は玄室より広い2.1メートルで、床が玄室より10センチほど高く、玄室との間を仕切る石があった。
 壁と床に、死者を弔う意味を込めた赤い顔料が塗られていたことなどから、市教委は「奥室に身分の高い人を葬った後、玄室に別の人物を追葬したのではないか」とみている。

 花園大学の高橋克寿准教授(考古学)は「北部九州や日本海側の一部の古墳に、玄室内に石組みで区切る例があることから、今回の奥室は継体天皇と九州との関係の深さを裏付ける資料だ」としている。
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2007年09月01日

正倉院大改修

 聖武天皇などの宝物を伝える奈良・正倉院(8世紀後半)の建物の損傷が目立ってきたため、宮内庁は、2011年度から2年間かけて大修理を行うことを決めた。
 本格的な修理は1913年の解体修理以来約100年ぶりだ。
 雨漏りによる木材の腐食を防ぐため、屋根のふき替えが中心となりそうだという。
 この間、正倉院には作業用の覆いがかけられ、姿は見られなくなる。

 宮内庁によると、95年以降、3回行った調査で、瓦のひび割れやずれ、軒先の変形などが判明し、また100年前の修理で屋根を支える骨組みを丈夫な構造に変えたが、建物全体のバランスが崩れている恐れもあるという。

 このため宮内庁は9月5日、建築構造の専門家ら学識者による検討会を発足させ、詳細な調査をもとに、修理計画を決めるとしている。
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2007年08月28日

藤ノ木古墳

藤ノ木古墳から出土した装身具を復元しようと奈良県立橿原考古学研究所付属博物館奈良芸術短大が取り組んでいるという。
 復元するのは被葬者の頭部を飾っていたとされる。
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2007年08月17日

浦上天主堂の設計図見つかる

 現存するキリスト教会の建築物として日本最古の大浦天主堂(長崎市南山手町)の設計図が、フランスのパリ外国宣教会で見つかった。

 1864年(元治元年)の建築当時のもので、発見した長崎総合科学大の林一馬学長(63)(建築学)は「建築当時の全体像や細部の構造が初めて明らかになった」として、今月29日、福岡市で開かれる日本建築学会で発表する予定だという。

 見つかったのは、平面図と側面図で、無地の洋紙に黒いインクで線を描き、木の部分は茶色、石畳や石段は薄い灰色、尖塔は青色の絵の具で色づけされていたという。

 林学長は、同宣教会の古文書局でファイルを調査中、宣教会から日本に派遣され、大浦天主堂を担当していたベルナール・プチジャン神父の手紙にまじって、二つ折りにした平面図と側面図を見つけたとしている。

 天主堂建築中、資金が不足し、プチジャン神父は横浜にいた日本教区長ジラール神父に金策を相談する手紙を送っており、どのような天主堂か説明するために設計図を添付したらしい。

 大浦天主堂は1614年(慶長19年)の禁教令以降、約250年間信仰を守り続けた隠れキリシタンが1865年(元治2年)3月17日、プチジャン神父に自分たちはキリシタンだと告白した宗教史上の奇跡「信徒発見」の舞台として知られている。
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2007年08月13日

最古の毛抜き

 滋賀県湖南市の夏見城遺跡から、室町後期の真鍮製の毛抜きが見つかった、と滋賀県文化財保護協会が発表した。
 精巧な文様が施された完形品で、真鍮製品としては国内最古とみられる。
 同協会は「美術工芸品として優れ、真鍮が伝えられた時期や使用実態を知る上でも貴重」としている。

 毛抜きは、現在でも一般的な撥形で、長さ8センチ、はさみ部1・5センチ、重さ15・6グラムで、表面に羽を広げたツルと、水生植物のオモダカが彫り込まれている。

 夏見城遺跡の北側部分の溝跡から見つけたという。
 同じ溝からは、ほかに15世紀後期から16世紀ごろの遺物である信楽窯産の甕や、中国・韓国製の茶わんが出土しており、同時代の製品と判断したのだという。

 これまで真鍮製品は17世紀に中国大陸から伝来した合金とされていたが、この発見で16世紀までさかのぼることになった。

 オモダカの文様は、葉の形から「勝ち草」と呼ばれ、その意匠が戦国武将に好まれたものだ。
 また中国産の天目茶碗の破片も出土し、入手しにくい真鍮製品を使っていたことから、県文化財保護協会では「裕福で文化人としての顔を持ったしゃれ者の武将がいたのではないか」と話している。
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2007年08月11日

高松塚

 奈良県明日香村、高松塚古墳(8世紀初め)の石室に、被葬者を納めた木棺を載せる木製の台(棺台)が置かれていたことがわかり、文化庁が、石室内に模型を置いて公開した。

 棺台が確認された同時期の古墳はあるが、高松塚では不明だった。
 同庁は「被葬者を丁寧に葬った証拠。身分や格式の高さがうかがえる」としている。

 石室床の中央部分(長さ217・5センチ、幅67・5センチ)が黒く変色しており、1972年の壁画発見時に出土した木棺の底板(長さ199・2センチ、幅57・6センチ)より一回り大きいことから、棺台の痕跡と判断したという。
 東側壁に残る、棺台や木棺を押しつけてついたとみられる傷の位置などから、棺台は高さ17センチ、木棺は高さ52センチ以上とわかった。

 同時期の古墳では、天武・持統合葬陵(明日香村)や藤原鎌足の墓とされる阿武山古墳(大阪府高槻市)で棺台が見つかっている。

 調査した奈良文化財研究所の松村恵司室長は「側壁の傷には金箔が残り、木棺、棺台ともに金箔が張られていた。透かし彫りなど豪華な装飾もあったかもしれない」と話している。

 文化庁は解体作業を20日に再開、数日中に残り4枚の床石を取り外すことも明らかにした。
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2007年08月04日

靖国神社と天皇陛下のお考え

 靖国神社へのA級戦犯合祀について、昭和天皇が「戦死者の霊を鎮める社であるのに、その性格が変わる」などと憂えていたと故徳川義寛・元侍従長が語っていたことがわかった。
 歌人で皇室の和歌の相談役を務めてきた岡野弘彦氏(83)が、徳川元侍従長の証言として、昨年末に出版した著書で明らかにしていたものだ。

 その著書は、「四季の歌」(同朋舎メディアプラン)だ。
 同書によると、86年秋ごろ、徳川元侍従長が、岡野氏を訪れたそうで、3〜4カ月に1度、昭和天皇の歌が30〜40首たまったところで相談するため会う習慣になっていたのだという。

 その中に、靖国神社について触れた「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」という1首があったという。

 岡野氏が「うれひ」の理由が歌の表現だけでは十分に伝わらないと指摘すると、徳川元侍従長は「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです」と述べたうえで「お上はそのことに反対の考えを持っていられました。その理由は二つある」と語り、「一つは(靖国神社は)国のために戦にのぞんで戦死した人々のみ霊を鎮める社であるのに、そのご祭神の性格が変わるとお思いになっていること」と説明したという。
 さらに「もう一つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとのお考えなのです」と述べたという。

 さらに徳川元侍従長は「それをあまりはっきりとお歌いになっては、差し支えがあるので、少し婉曲にしていただいたのです」と述べたという。

 昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を示していたことは、朝日新聞社に対する徳川元侍従長の証言(95年)や、富田朝彦元宮内庁長官のメモ(06年)、卜部亮吾侍従の日記(07年)でも明らかになっていた。
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2007年07月23日

エジプトで3500年前の要塞跡

 エジプト考古最高評議会の調査隊は、スエズ運河から東約3キロのシナイ半島北部で約3500年前の軍事要塞の遺跡を発見したと発表した。
 古代エジプトの要塞としては最大という。
 調査隊を率いるモハメド・アブデルマクスード博士によると、要塞は古代エジプト第18王朝6代目のファラオ(王)トトメス3世(在位推定紀元前1479年−1425年)の時代に造られたとみられ、エジプトとパレスチナを結ぶ古代の軍事道路、ホルスロード上で見つかったという。
 博士は、エジプトの東端部を守るための軍事拠点とみている様だ。

 要塞の面積は縦500メートル、横250メートルで、壁の厚さは13メートルあったといい、周囲には高さ20メートルほどの塔が24本建っていたとみられる。

 トトメス3世はシリアやナイル川上流のヌビアを征服するなど高い軍事能力で知られ、帝国的な支配を行い「エジプト最大の王」と呼ばれている。
posted by ひで at 21:53| 奈良 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする