2011年01月10日

北大津遺跡から出土の木簡から新たな発見

天智天皇の近江大津宮に関連すると推測されている滋賀県大津市にある北大津遺跡(7世紀後半のものと推測)から出土した「音義木簡」を、奈良文化財研究所が約30年ぶりに再調査したところ、解読できた文字数が、前回調査した33年前と比較して約2倍の49文字に増えたことが明らかになった。
 漢和辞典のように漢字の訓読みや意味を示した木簡で、情報量が増えたことで、今後は、より詳細な研究が可能になり、日本語の音韻や漢字を使った表記の変遷をたどる上で貴重な史料になりそうだと期待されている。

 解読された木簡(長さ68・5センチ、幅7・4センチ)は1973年に、滋賀県教委の調査で出土した、同県内で初めて見つかった木簡で、同県警鑑識課が撮影した赤外線写真を使って調査した結果、1977年に、約50文字が残り、うち26文字を解読できたことが報告されていた。
 しかし現在は、劣化の為、墨書が薄れて文字が読めなくなり、赤外線写真のフィルムも劣化して現像できなくなっている事から、昨年8月、奈良文化財研究所が新たに赤外線撮影したところ、79文字以上が残っていることがわかり、うち49文字を解読することができたのだという。

 「費」に「阿多比(あたひ)」、「鎧」に「与里比(よろひ)」などの訓を、漢字1字を日本語の1音にあてて記していることが新たに判明し、「慕」を「尼我布(ねがふ)」とする訓などが平安時代の辞書にも書かれており、この読み方が、7世紀後半にさかのぼることが明らかになったという。

 また、木簡に書かれた文字は上下二つのまとまりになっており、文字の出典が複数ある可能性があるという事も今回の調査で明らかになったと言う。

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2010年07月11日

井伊直弼の中間は逃げた

 幕末の大老・井伊直弼が暗殺されたいわゆる「桜田門外の変」で、居合わせた中間の証言とされる記録が、広島県福山市にある広島県立歴史博物館で発見されたそうだ。
 この記録は中間が故郷の安芸に帰る途中に役人に語ったものとされており、襲撃時の慌てた状況が読み取れるという。

 記述があったのは、福山藩の儒学者だった菅茶山の弟子、門田朴斎の五男が、当時の「変」に関する伝聞や風説などを集めた「骨董録」で、茶山の子孫が館へ寄贈した資料約1万点の中にあったという。

 文章は(殿様御駕籠へ誰に候哉、刀抜連切て掛り候者数人有之、其勢之烈しく怖しき事言んかたなし。其内に御駕籠の内か外か不存候へ共、大なる声にて一声叫び候声ハ耳本へ響て聞へ候、御供方ハ前後へ颯と逃散り、抜合候士も無之様に者相見候へ)等と記載されており生々しい状況が読み取れるものだ。

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2009年12月20日

フェスティビタス・ナタリス

 約400年前のクリスマスを再現した「フェスティビタス・ナタリス」が昨日、長崎県南島原市で開かれ、約120人がキリシタン大名や宣教師らに扮し、南蛮行列を披露したそうだ。
 1580年に日本初となる西洋式神学校の「セミナリヨ」が設立されたことにちなみ、青年団などが始め今年で13回目なのだそうだ。
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2009年09月27日

三元車

 現存する日本最古の国産自転車である「三元車」の展示が昨日、製作者である鈴木三元氏の生誕地である福島県桑折町にある旧伊達郡役所で始まった。
 同町民有志で結成した三元車を復元させるプロジェクトチームなどが、歴史的価値に触れてもらおうと企画したものだという。

 三元車は、鈴木三元が4年の開発期間を経て1876年(明治9年)に完成させたといわれている。
 これまで現存する唯一のものは名古屋市のトヨタテクノミュージアム産業技術記念館に保存され、一般公開されていなかった。

 前輪が二つ、後輪が一つの三輪車で、左右のペダルを交互に踏むことで後輪を回して進む方式で、今の様にブレーキはなく、前輪についている取っ手のようなハンドルで操作するという。
 車体の主な部品は木製で、地面と接する車輪の縁には鉄が打ち付けてあるのだそうだ。

 プロジェクトチームは、町の歴史的資源を生かしてまちおこしをしようと昨年8月に結成されたという。
 三元氏の子孫で、その5代目となる鈴木三元氏がリーダーとなって活動しているそうだ。
 今回も実物を採寸して設計図を作ったり、車輪の部品を作ったりするなどして、11月の完成を目指しているという。


 展示は、10月25日までの午前9時〜午後4時30分に開催されている。
 詳しい問い合わせは、三元車展実行委員会(024・582・2126)へどうぞ。
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2009年03月15日

0系新幹線車両 故郷へ

 昨年12月をもって引退した0系新幹線の先頭車両が製造元の川崎重工業兵庫工場へ譲渡されることになり、昨日朝、JR西日本博多総合車両所から運び出す作業が始まった。
 古里の工場で貴重な鉄道資料として保存展示される予定だという。

 JR西日本によると、今回譲渡されるのは1983年に製造され、全長約25メートル、重さ60トンの車両だという。
 昨年12月14日、新大阪発博多行き「ひかり347号」として最後の運行に使われたものだそうだ。

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2009年02月08日

外務省が明治期の外交文書公開へ

 我が国の外務省がホームページで、明治期の外交文書の公開を始めた事がわかった。
 同省がまとめた史料集「日本外交文書」のうち、1867年(慶応3年)から1912年(大正元年)までの86冊(約8万ページ)分の画像データが公開されているという。
 本公開データには、日清戦争や日英同盟に関する記録、岩倉使節団以来の不平等条約改正交渉の記録などが含まれている事になる。
 実は日本外交文書は戦前の1936年から編集作業が始まり、これまでに201冊が刊行されているのだが、これまでも国立国会図書館などで閲覧できてはいたのだが、時代の古いものは数冊しか残っていないため、ホームページで広く公開することにしたという。
 外務省は今後、残りの文書もデジタル化して公開する方針だというから我々歴史ファンにはありがたい!。
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2009年02月01日

大東亜戦争の英霊達帰国へ

 大東亜戦争で捕虜となり、後に死亡した日本兵ら約6000人の氏名、埋葬場所などを記したリストが米国立公文書館で確認された事がわかった。
 佐賀県にあるNPO法人「戦没者を慰霊し平和を守る会」の依頼を受けた調査会社が見つけたのだという。
 英霊達の埋葬場所は米ハワイやインドネシア、フィリピン、インド、沖縄など広範囲にわたり、遺骨の特定が進んでいなかった南方の戦域での遺骨発見や人物の特定につながる貴重な資料となりそうだと期待されている。

 今回発見されたのは、米国の戦争捕虜に関する情報機関が1952年3月に作成した「日本兵捕虜死亡者リスト」だ。
 計約400ページで、日本の軍人、軍属について、一部重複の可能性があるが、5979人のローマ字表記の氏名、所属階級、捕虜番号、死亡日、死因、埋葬場所の墓地名が記されているという。
 同NPO法人は戦没者の遺骨・遺品収集と遺族への返還をボランティアで行っており、昨年7月、フィリピン・レイテ島のパロ地区の住民から「米軍が日本兵を埋葬した」という目撃情報を得たため、米軍資料の調査などを手がける「ニチマイ」に依頼していたという。
 「ニチマイ」社が昨年8〜11月、米国立公文書館でレイテ島の戦闘報告書など数万枚を調べ、リストを発見したそうで、パロについては、墓地の位置を示す地図も見つかったという。

 同会では今後、リストに掲載された氏名などを会のホームページに掲載して情報を募るとともに、地図が見つかったパロには4月にも訪れ、遺骨の発見を目指す方針だといい、英霊達が眠る異国の地から我が国へ帰国していただく事が叶いそうだという。

 厚生労働省も来年度から、日本兵の埋葬場所などを特定できる資料があるかどうか、戦勝国の軍事資料調査に乗り出す事を明らかにしており、「これまで捕虜の埋葬場所を記した資料を確認したことはない」としているだけに国家と民間が協力して今はなき英霊達の帰国をサポートできそうだと期待されている。
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2009年01月02日

三木露風の生家保存へ

 たつの市は、童謡「赤とんぼ」の作詞等で知られる同市出身の詩人三木露風の生家を、現在の所有者から買い取る方針を固めた。
 購入後は、露風の歩みを紹介する観光拠点などに活用する方針だという。
 露風は、同市龍野町上霞城のこの家で五歳まで過ごし、その後は、両親の離婚で母が鳥取の実家に帰り、父とともに近くの祖父宅で暮らした。
 ちなみに「赤とんぼ」の歌詞は、母の帰りを待ちわびた切ない気持ちをつづったと言われている。

 生家の建築年は不明で、露風自身も一九二〇年に相続しているが、昭和になって他人に譲渡しているという。
 昨年初めまで女性が一人で住んでいたが、同女性が老人ホームに入居したため、所有権を持つ女性の親族が市に買い取りを打診したのだという。

 市は「童謡の里」を掲げており、観光客が多く訪れる景観形成地区にある露風の生家は、観光資源として価値があると判断し、昨年十月、買収方針を決定したのだそうだ。

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清水寺が田村堂内部公開へ

 京都市東山区にある清水寺は、同寺の創建にゆかりが深いとされている征夷大将軍の坂上田村麻呂公を祭る重要文化財の田村堂(開山堂)の内部を、今年3月1日から3カ月間、99年ぶりに公開する事を明らかにした。
 田村堂は檜皮ぶき入母屋造り、8メートル四方の建物で、江戸初期の寛永年間に徳川家光の寄進で再建されたものだ。
 さらに2005年には屋根や外観の朱塗りを修復しているが、田村堂内部は、田村麻呂1100年遠忌の明治43(1910)年以降、非公開となっていた。
 今回は3月の西国三十三所観音霊場巡り本尊開帳の関連行事として、田村麻呂1200年遠忌の1年前に公開するものだという。

 堂内に置かれた漆塗り唐様式の厨子には、田村麻呂座像を安置しているが、同像は高さ78センチの座像で、ヒノキ材の寄せ木造りで衣冠束帯の正装姿をしているのだそうだ。

 清水寺によると、田村麻呂は8世紀末、音羽の滝で修行中の僧侶と出会ったことから観音に帰依し、仏殿と観音像を寄進したと言い伝えられているそうだ。
 征夷大将軍として延暦21(802)年の東北遠征時には、激戦の末に降伏した敵方首領の勇気と知恵をたたえ、朝廷に助命を嘆願したという逸話も残っている。
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2008年12月27日

ハンセン病療養所の重監房復元へ

 群馬県草津町にある国立ハンセン病療養所の栗生楽泉園において戦前には刑務所代わりに患者を収監し、現在は土台だけが残っている「重監房」が復元される見通しになったという。
 国の来年度予算案に復元に向けた調査費500万円が盛り込まれたからだ。
 当時の重監房では過酷な環境下で多くの患者が死亡したといい、元患者たちは「人権被害の歴史を象徴する施設。実現に向けた大きな一歩だ」と歓迎しているという。
 47年に建物は解体されており、残された記録は少ない現状ではあるものの、元患者などが実態調査を続けているという。
 房には鍵のかかる4畳半の個室8室があり、冬にはマイナス20度近くまで冷え込むというにもかかわらず、暖房設備はなかったという。
 さらに1日2回の食事は麦飯と具のないみそ汁程度しかなく、施設の解体までに92人を収容し、内22人が死亡したとされている。

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2008年08月31日

箸墓古墳

 邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市にある国内最古級といわれている大型前方後円墳の箸墓古墳で、前方部の外側に幅60〜70メートルの周濠が造られていた可能性が高いことが、同市教委の調査で明らかになった。
 今回発見された周濠の規模は、これまで想定されていた予想幅の2倍超であり、被葬者の強大な権力を示すものとみられている。

 ちなみに箸墓古墳では過去の調査でも周濠の一部が見つかっており、これまで周濠の幅について前方部は約30メートル、後円部は約50メートルと推定していたのだが、今回の発見でそうした推定も大きく変わることになった。
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2008年07月21日

日本最大級の牙

 石川県白山市にある白亜紀前期の地層の赤岩層(約1億3000万年前)からティラノサウルスなどで知られる肉食恐竜のものとみられる、ほぼ完全な形をした8・2センチもある歯の化石が発見された。

 国立科学博物館の研究者たちの話によると、過去、国内で見つかった最大の歯は、熊本県で発見された7・5センチの「ミフネリュウ」の牙で、「完全な形で見つかった標本では国内最大」とみられている。
posted by ひで at 07:27| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月21日

詩経

 但馬国府跡とされる兵庫県の祢布ヶ森遺跡で、中国最古の詩集「詩経」の注釈書の一節が書かれた9世紀初めごろの木簡が全国で初めて見つかった。
 詩経の注釈書は当時、都の学問・教育機関だった「大学寮」の教科書として使われたとされ、「但馬国府でも注釈書が使用されていた可能性が高い」と推測されている。

 この木簡は長さ39・5センチ、幅10・9センチ、厚さ0・7センチで、「淒寒風也谷風曰東風」などと墨書されていたという。
 詩経にある「淒」や「谷風」の意味を説明する内容で、注釈書「毛詩正義」の記載とほぼ同文だ。
 下に「健児長」と記され、国府を警備していた兵士「健児」が字の練習のために書いた可能性があるという。

 当時、但馬国司だったのは桓武天皇の皇子、良岑安世で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されている。
posted by ひで at 10:42| 奈良 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月20日

沖縄の遺族が靖国合祀を拒否へ

 沖縄戦などで死亡した肉親を無断で靖国神社に合祀され、追悼の仕方を自由に決める権利が侵害されたとして、沖縄県内の遺族5人が同神社と国を相手取り、合祀の取り消しと慰謝料計50万円の支払いを求める訴えを那覇地裁に起こした事がわかった。
 遺族等は戦争被害者である住民が戦争加害者と合祀され、祭神とされることは受け入れられないと主張している。

 それだけ沖縄の方々の心の傷が大きいという事を我々はもっと知らなければならない!

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2008年03月15日

親鸞聖人の遺骨

 浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(1173〜1262)のものとみられる遺骨が、同宗本願寺派の常楽寺(常楽台、京都市下京区)が所蔵する親鸞の座像の中から見つかったという。
 昔から寺に言い伝えがあり、根立研介・京都大教授(日本美術史)らが調べたところ、その通り中に納められていたのだそうだ。

 常楽寺は、親鸞聖人の玄孫(孫の孫)の存覚(1290〜1373)が開いたとされる。
 存覚は父の本願寺第3世・覚如から親鸞の遺骨を受け継いだとの記録が残り、寺には骨片を納めた宝塔が伝わっている。
 また遺骨が見つかった親鸞聖人が念仏を唱える姿を彫った木像は江戸中期の作とみられ、寄せ木造りで高さ24.2センチの大きさだという。 
 
posted by ひで at 12:06| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月03日

正倉院内部公開

 聖武天皇(701〜56)ゆかりの宝物などを納めていた国宝・正倉院の修理に向け、宮内庁は、古代建築の専門家らの現地視察を実施した。
 屋根瓦のふき替えが必要との結論だが、建物の構造強度は十分という見解が示されたという。
 また前日には、一部のテレビ特番などを除いてこれまで非公開だった校倉内が報道各社に初めて公開された。

 日本の建築技術の高さを物語る事実ですね!
posted by ひで at 10:39| 奈良 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月06日

姫路城と秀吉

 世界文化遺産であり国宝でもある姫路城の太鼓櫓の窓に、国内に現存する城郭建築では例がない「端喰」という技法を用いた引き戸が使われていることが、専門家の調査で分かった。
 神社本殿など格式の高い建物の扉に多用される技法だそうで、秀吉が築城し、取り壊された旧天守から転用された可能性が高いという。
 城造りの名人だった秀吉が手掛けた姫路城の全容は今も分かっておらず、貴重な歴史資料として注目されているそうだ。
posted by ひで at 22:17| 奈良 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月11日

吉村教授が新発見

 日本のエジプト研究の第一人者である吉村教授は、エジプト・カイロ近郊にあるダハシュール北遺跡で、古代エジプト第18〜19王朝時代(約3400年前)の父子とみられる2体のミイラを発見した。
 吉村教授によると10月22日に発掘した同じ墓穴に並んで埋葬されていることから親子と判断したが、エジプトでも前例のないことだという。

 棺の文字から父は建設技師らしく、子どもは乳児と幼児の間ぐらいだという事が分かったという。
 盗掘の跡は見あたらないが、同時に目立つ副葬品もなかったそうだ。
 事故か伝染病などの理由で同時に死亡したらしく、死因なども今後調べる方針だとしている。
posted by ひで at 09:53| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月20日

山田寺

 奈良県桜井市にある山田寺跡(7世紀、特別史跡)の出土品から、国内最古級の壁画の断片が含まれていたことが奈良文化財研究所の研究でわかったそうだ。
 12世紀後半に焼失したとみられる金堂(643年創建)に描かれた仏画の一部だったらしい。
 書かれている絵柄は不明だが、同県斑鳩町の創建法隆寺に次ぐ壁画の可能性があると注目されているという。

 見つかった壁画片は大(縦9センチ、横6.8センチ)と小(縦6.3センチ、横6.5センチ)の2点で、彩色はほぼ焼失しているが、色を塗った跡らしい曲線文様などが残っていたそうだ。

 山田寺は、蘇我入鹿の従兄弟の蘇我倉山田石川麻呂が641年に着工したとされている。
posted by ひで at 10:31| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月04日

卑弥呼の紅

 奈良県桜井市のまき向遺跡で3世紀中頃のものと見られる国内最古の紅花の花粉が見つかった。
 同遺跡は邪馬台国の有力な候補地だが、見つかった紅花は、まさに邪馬台国の卑弥呼の時代と一致し、ますますまき向遺跡が邪馬台国である可能性が高まったと言えるだろう。
posted by ひで at 00:05| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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