2007年09月19日

17世紀の忘れ物

 京都府教育委員会は、京都市の知恩院集会堂(重要文化財)の天井付近で17世紀前半の両刃のみを発見したと発表した。
 両刃のものは珍しく、全国でも数例しか発見例がないという。
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2007年09月18日

親鸞

 浄土真宗本願寺派寺院の常楽台(京都市下京区)が所蔵する肖像画「親鸞聖人影像(花の御影)」の修復で「親鸞聖人の遺骨を宝塔に納めた」と記した墨書が見つかった。
 寺に伝わる金銅製宝塔にある骨片が、没後745年になる真宗の開祖親鸞聖人の遺骨であることを裏付けるという。
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2007年09月14日

継体天皇の関係者か

 滋賀県高島市にある田中古墳群の一つ、36号墳(6世紀後半の円墳)から、遺体を安置する玄室の奥に別の空間(奥室)をもつ特異な形の横穴式石室が見つかったと、発掘調査した市教委が発表した。
 奥室がある横穴式石室は全国でも例がないという。
 馬具など副葬品が出土したほか、古墳群の中心部に継体天皇(6世紀初頭の在位)の父の陵墓とされる田中王塚古墳があることなどから、市教委は「継体天皇一族に仕えた重臣の墓ではないか」とみている。
  
 36号墳は直径24メートル、高さ4メートルで、石室は花崗岩を積み上げて構築され、天井と東側の壁面以外はほぼ原形をとどめていた。
 奥室は、玄室(長さ3.4メートル、幅1.9メートル)のさらに奥で見つかった。
 長さ約1.1メートルで、幅は玄室より広い2.1メートルで、床が玄室より10センチほど高く、玄室との間を仕切る石があった。
 壁と床に、死者を弔う意味を込めた赤い顔料が塗られていたことなどから、市教委は「奥室に身分の高い人を葬った後、玄室に別の人物を追葬したのではないか」とみている。

 花園大学の高橋克寿准教授(考古学)は「北部九州や日本海側の一部の古墳に、玄室内に石組みで区切る例があることから、今回の奥室は継体天皇と九州との関係の深さを裏付ける資料だ」としている。
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2007年09月01日

正倉院大改修

 聖武天皇などの宝物を伝える奈良・正倉院(8世紀後半)の建物の損傷が目立ってきたため、宮内庁は、2011年度から2年間かけて大修理を行うことを決めた。
 本格的な修理は1913年の解体修理以来約100年ぶりだ。
 雨漏りによる木材の腐食を防ぐため、屋根のふき替えが中心となりそうだという。
 この間、正倉院には作業用の覆いがかけられ、姿は見られなくなる。

 宮内庁によると、95年以降、3回行った調査で、瓦のひび割れやずれ、軒先の変形などが判明し、また100年前の修理で屋根を支える骨組みを丈夫な構造に変えたが、建物全体のバランスが崩れている恐れもあるという。

 このため宮内庁は9月5日、建築構造の専門家ら学識者による検討会を発足させ、詳細な調査をもとに、修理計画を決めるとしている。
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2007年08月28日

藤ノ木古墳

藤ノ木古墳から出土した装身具を復元しようと奈良県立橿原考古学研究所付属博物館と奈良芸術短大が取り組んでいるという。
 復元するのは被葬者の頭部を飾っていたとされる。
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2007年08月17日

浦上天主堂の設計図見つかる

 現存するキリスト教会の建築物として日本最古の大浦天主堂(長崎市南山手町)の設計図が、フランスのパリ外国宣教会で見つかった。

 1864年(元治元年)の建築当時のもので、発見した長崎総合科学大の林一馬学長(63)(建築学)は「建築当時の全体像や細部の構造が初めて明らかになった」として、今月29日、福岡市で開かれる日本建築学会で発表する予定だという。

 見つかったのは、平面図と側面図で、無地の洋紙に黒いインクで線を描き、木の部分は茶色、石畳や石段は薄い灰色、尖塔は青色の絵の具で色づけされていたという。

 林学長は、同宣教会の古文書局でファイルを調査中、宣教会から日本に派遣され、大浦天主堂を担当していたベルナール・プチジャン神父の手紙にまじって、二つ折りにした平面図と側面図を見つけたとしている。

 天主堂建築中、資金が不足し、プチジャン神父は横浜にいた日本教区長ジラール神父に金策を相談する手紙を送っており、どのような天主堂か説明するために設計図を添付したらしい。

 大浦天主堂は1614年(慶長19年)の禁教令以降、約250年間信仰を守り続けた隠れキリシタンが1865年(元治2年)3月17日、プチジャン神父に自分たちはキリシタンだと告白した宗教史上の奇跡「信徒発見」の舞台として知られている。
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2007年08月13日

最古の毛抜き

 滋賀県湖南市の夏見城遺跡から、室町後期の真鍮製の毛抜きが見つかった、と滋賀県文化財保護協会が発表した。
 精巧な文様が施された完形品で、真鍮製品としては国内最古とみられる。
 同協会は「美術工芸品として優れ、真鍮が伝えられた時期や使用実態を知る上でも貴重」としている。

 毛抜きは、現在でも一般的な撥形で、長さ8センチ、はさみ部1・5センチ、重さ15・6グラムで、表面に羽を広げたツルと、水生植物のオモダカが彫り込まれている。

 夏見城遺跡の北側部分の溝跡から見つけたという。
 同じ溝からは、ほかに15世紀後期から16世紀ごろの遺物である信楽窯産の甕や、中国・韓国製の茶わんが出土しており、同時代の製品と判断したのだという。

 これまで真鍮製品は17世紀に中国大陸から伝来した合金とされていたが、この発見で16世紀までさかのぼることになった。

 オモダカの文様は、葉の形から「勝ち草」と呼ばれ、その意匠が戦国武将に好まれたものだ。
 また中国産の天目茶碗の破片も出土し、入手しにくい真鍮製品を使っていたことから、県文化財保護協会では「裕福で文化人としての顔を持ったしゃれ者の武将がいたのではないか」と話している。

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2007年08月11日

高松塚

 奈良県明日香村、高松塚古墳(8世紀初め)の石室に、被葬者を納めた木棺を載せる木製の台(棺台)が置かれていたことがわかり、文化庁が、石室内に模型を置いて公開した。

 棺台が確認された同時期の古墳はあるが、高松塚では不明だった。
 同庁は「被葬者を丁寧に葬った証拠。身分や格式の高さがうかがえる」としている。

 石室床の中央部分(長さ217・5センチ、幅67・5センチ)が黒く変色しており、1972年の壁画発見時に出土した木棺の底板(長さ199・2センチ、幅57・6センチ)より一回り大きいことから、棺台の痕跡と判断したという。
 東側壁に残る、棺台や木棺を押しつけてついたとみられる傷の位置などから、棺台は高さ17センチ、木棺は高さ52センチ以上とわかった。

 同時期の古墳では、天武・持統合葬陵(明日香村)や藤原鎌足の墓とされる阿武山古墳(大阪府高槻市)で棺台が見つかっている。

 調査した奈良文化財研究所の松村恵司室長は「側壁の傷には金箔が残り、木棺、棺台ともに金箔が張られていた。透かし彫りなど豪華な装飾もあったかもしれない」と話している。

 文化庁は解体作業を20日に再開、数日中に残り4枚の床石を取り外すことも明らかにした。
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2007年08月04日

靖国神社と天皇陛下のお考え

 靖国神社へのA級戦犯合祀について、昭和天皇が「戦死者の霊を鎮める社であるのに、その性格が変わる」などと憂えていたと故徳川義寛・元侍従長が語っていたことがわかった。
 歌人で皇室の和歌の相談役を務めてきた岡野弘彦氏(83)が、徳川元侍従長の証言として、昨年末に出版した著書で明らかにしていたものだ。

 その著書は、「四季の歌」(同朋舎メディアプラン)だ。
 同書によると、86年秋ごろ、徳川元侍従長が、岡野氏を訪れたそうで、3〜4カ月に1度、昭和天皇の歌が30〜40首たまったところで相談するため会う習慣になっていたのだという。

 その中に、靖国神社について触れた「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」という1首があったという。

 岡野氏が「うれひ」の理由が歌の表現だけでは十分に伝わらないと指摘すると、徳川元侍従長は「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです」と述べたうえで「お上はそのことに反対の考えを持っていられました。その理由は二つある」と語り、「一つは(靖国神社は)国のために戦にのぞんで戦死した人々のみ霊を鎮める社であるのに、そのご祭神の性格が変わるとお思いになっていること」と説明したという。
 さらに「もう一つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとのお考えなのです」と述べたという。

 さらに徳川元侍従長は「それをあまりはっきりとお歌いになっては、差し支えがあるので、少し婉曲にしていただいたのです」と述べたという。

 昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を示していたことは、朝日新聞社に対する徳川元侍従長の証言(95年)や、富田朝彦元宮内庁長官のメモ(06年)、卜部亮吾侍従の日記(07年)でも明らかになっていた。
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2007年07月23日

エジプトで3500年前の要塞跡

 エジプト考古最高評議会の調査隊は、スエズ運河から東約3キロのシナイ半島北部で約3500年前の軍事要塞の遺跡を発見したと発表した。
 古代エジプトの要塞としては最大という。
 調査隊を率いるモハメド・アブデルマクスード博士によると、要塞は古代エジプト第18王朝6代目のファラオ(王)トトメス3世(在位推定紀元前1479年−1425年)の時代に造られたとみられ、エジプトとパレスチナを結ぶ古代の軍事道路、ホルスロード上で見つかったという。
 博士は、エジプトの東端部を守るための軍事拠点とみている様だ。

 要塞の面積は縦500メートル、横250メートルで、壁の厚さは13メートルあったといい、周囲には高さ20メートルほどの塔が24本建っていたとみられる。

 トトメス3世はシリアやナイル川上流のヌビアを征服するなど高い軍事能力で知られ、帝国的な支配を行い「エジプト最大の王」と呼ばれている。
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2007年07月21日

法隆寺の最古級の文書発見

 大阪府枚方市の旧家が市に寄贈した古文書の中から、平安時代(929年)の法隆寺文書が見つかり、同市教育委員会が発表した。

 市教委によると、東大寺などは古代の文書が多数伝わっているが、法隆寺は散逸しており、12世紀以前だと66点しかないそうだ。
 8世紀の文書もあるが傷みがひどく、判読できる文書では最古という。

 鑑定した梅村喬大阪大教授(日本古代史)は「法隆寺が国家の保護を受けられなくなった平安時代以降、どう寺を運営したか一端がうかがえ、貴重な史料」としている。

 発見されたのは法隆寺に近くの土地を売った証文「売券」で縦約30センチ、横約70センチだという。
 誦師麿という人物が、母親の墓地を買うため売却したとあり、平群郡(奈良県西部)役所の印があったそうだが、面積や価格の記録部分は欠落しているという。

 法隆寺は飛鳥時代に聖徳太子が建立したとされる。
 朝廷の手厚い保護を受けたが、律令体制が崩れ、土地の私有化が進んだ平安時代以降、財政的に苦しんだとされる。
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吉村先生新たな発見!

 早稲田大古代エジプト調査隊の吉村作治隊長らは昨日、東京都内で記者会見し、カイロ郊外にある「ダハシュール北遺跡」の未盗掘墓で発見された木棺の中から、さらに人の形をした木棺が見つかったと発表した。
 中にはミイラがあるとみられ、人形木棺が埋葬当時の状態で見つかった例は世界でも報告がないという。

 早稲田大エジプト学研究所の近藤二郎所長は「埋葬方法の変遷を知る上で、非常に重要な発見」と話している。

 吉村隊長らによると、人形木棺は左側を下にし、正面を東に向け木棺に納められていたそうで、表面はしっくいの上に人の顔や左右非対称の模様を描き、ビーズ装飾を施した上で布を巻いていたという。

 木棺に書かれた文字から、中には約3800年前に埋葬された「セベクハト」という名前の男性のミイラがあるとみられる。
 同じ墓で見つかった「セネトイトエス」という名の妻用の木棺には、マスクをかぶせたミイラが収められているのが確認されたそうだ。

 また、遺跡の別の墓で見つかった「アメン神殿の職人の長」と書かれた木棺からも男性のミイラを発見したという。
 身長約165センチで、歯の摩耗や腰骨の状態から、約3400年前に埋葬された50歳以上の高齢者の可能性が高いという。
 身分の高さを示す、副葬品の木製のつえや枕も見つかったそうだ。
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2007年07月19日

人類はアフリカが発祥

 現代人(ホモサピエンス)の祖先が10〜20万年前にアフリカでうまれて、その後各地へ渡り旧人と代わって行ったとする「アフリカ単一起源説」を佐賀大学らのグループが世界中に保存されている6000以上の頭蓋骨の標本を計測して証明した。
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2007年07月08日

徳川菩提寺を発掘調査

 徳川将軍家の菩提寺、東京・上野の寛永寺が管理する4代将軍家綱の生母や正室ら23人の墓所が改葬されることになり、先月から発掘調査が始まった。

 徳川家墓所での発掘は、やはり徳川家の菩提寺である東京・芝の増上寺で1958〜60年に行われて以来、ほぼ半世紀ぶりになる。

 増上寺では大量の着物などが発見されており、今回の調査でも栄華を極めた大奥の暮らしぶりが一層明らかになるものと期待されている。

 発掘調査が行われる墓は、このほか、12代家慶の正室や13代家定の正室、14代家茂の生母など計23基だという。

 寛永寺の浦井正明執事長によると、改葬は徳川宗家18代当主の徳川恒孝氏の意向で、広大な墓所の維持管理の問題や参拝の便を考えての決断だったという。

 23人の遺体は現在、東京・谷中霊園にある徳川家墓所(約4700平方メートル)に埋葬されているが、調査後、約500メートル離れた寛永寺境内の将軍墓に移される予定だ。

 寛永寺では、坂詰秀一・立正大名誉教授(考古学)を名誉団長とする「近世墓所調査団」を組織し、染色、歴史学、建築史、保存科学、古写真、近世絵画、形質人類学などの専門家も参与に迎え、約1年かけて学術調査を実施するという。
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2007年07月07日

冷凍マンモス

 ロシア西シベリアの北極圏を流れるユリベイ川付近で約1万年前に絶命したとみられる生後1年ほどの雌の凍結マンモスがほぼ無傷の状態で見つかったという。

 タス通信などによると、場所はカラ海に突き出たヤマル半島の永久凍土地帯で、今年5月、現地のトナカイ飼育業者が偶然見つけたものだそうだ。
 体長約130センチ、体重約50キロで、鼻や目が良好な状態で保存され、体毛も残っているという。
 近くのサレハルドで5日、内外の専門家が会合を開き、雌の幼体と確認したそうだ。

 今後、マンモスは日本に輸送され、研究実績のある東京慈恵会医科大・高次元医用画像工学研究所(東京都狛江市)が、CTスキャンで体内の構造を解析するよていだそうだ。
 同研究所の鈴木直樹所長は「全身がそろった状態での解析は初めてで、体内の構造や生態などの全容解明につながる」と話している。
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2007年06月23日

天皇陛下が寄贈

 宮内庁と北海道庁は、全国植樹祭のため北海道入りした天皇陛下が、戦前の北海道の開拓や産業の様子を記録したフィルムなどを寄贈したと発表した。

 宮内庁側の記録だと、36年に道庁から昭和天皇に献上された全13巻と、献上元不明の「雪中の軍事教練(北海道)」1巻だそうだ。
 いずれも16ミリで、北海道の沿革と都市、それぞれ農林水産業や鉱工業、国立公園、拓殖の様子を撮影しているものだという。

 天皇陛下が戦時中、疎開先の日光の田母沢御用邸で見た記憶があり、その後ずっと東京・小金井の御仮寓所や東宮職で保管していたが、昨年秋、高橋はるみ道知事に寄贈を申し出ていたという。
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2007年06月03日

屏風で知る淀城

 江戸中期の宇治川や淀川流域の様子を描いた「淀伏見近郊図屏風」がこのほど見つかり、京都市歴史資料館(上京区)のテーマ展「屏風」で展示されているそうだ。
 同資料館は「淀城周辺の景観を一望する史料として貴重」と話しているという。

 同屏風は六曲一双で、一隻は縦75センチ、横203センチだそうだ。
 左に伏見、中央に淀城、右に石清水八幡宮を配し、随所に桜や金の雲に埋め尽くされ、小振りだが華やかなつくりだという。

 1756(宝暦6)年に焼失した淀城の天守閣が描かれ、このころの作とみられる。
 城内の様子や水を引く水車、庭園、城下の高札場が詳しく描かれ、観月橋周辺の街並み、船遊びをする人々や船上で飲食物を商う「くらわんかぶね」も描かれているという。
 また裏面には秋をテーマにした「波に千鳥図」があるのだそうだ。

 宇野日出生研究員は「誇張はあるが、ポイントはしっかり描かれている。依頼主の何らかの要望があって描かれた品だろう」と話している。

 同展は8月26日まで(月曜・祝日休館、無料)で、同屏風の展示は6月28日までの予定だそうだ。
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2007年06月02日

二足歩行の歴史に新説

 人類の特徴である直立二足歩行は、祖先がチンパンジーから分かれた後の地上生活で始まったのではなく、樹上生活をしていた、より古い祖先まで起源をさかのぼれるという新説を、英バーミンガム大などの研究チームが発表した。
 オランウータンが細くてたわみやすい枝を移動する際、二足歩行を多用していることからわかったという。
 研究チームは、インドネシアのスマトラ島で1年間、野生のオランウータンを観察し続け、樹上を移動する際、どのように体重を支えているかを分析したのだそうだ。

 その結果、腕でぶら下がっての移動が約半数を占めたが、二足歩行も13%に上り、特に太さ4センチ未満のたわみやすい枝を移動する時は二足歩行の割合が22%と、四足歩行の16%を上回った事がわかったという。
 二足歩行の90%以上が脚を伸ばした直立姿勢で、75%は腕でバランスをとっていたそうだ。
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2007年04月28日

恐竜の皮膚の化石

 福井県勝山市の「北谷層」(約1億2000万年前)から発見された、恐竜の体の皮膚の跡が岩石に残る「皮膚痕化石」の一般公開が、県立恐竜博物館(同市)で始まった。
 訪れたファンが、国内初となる貴重な化石に見入っていた。

 同館3階で、岩石(約23〜24センチ四方、厚さ約7センチ)を展示しているという。
 表面の約6割に、直径3〜5ミリの多角形や円形の突起状の模様があり、拡大鏡で見ることができるそうだ。
 種類は特定できていないが、形状などから草食恐竜の可能性があるという。
 公開は5月末まで(5月9、23日は休館)で、入館料は大人500円、高校・大学生400円、小中学生250円だという。
 詳しい問い合わせは同博物館(0779・88・0001)までどうぞ。
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2007年04月24日

140年前の潜水艦を探そう

 140年前に沈んだ中南米初の潜水艦を発見しようという試みが今月中旬、チリ中部バルパライソ港で始まった。海軍のダイバーらも協力するという。

 1866年にドイツ系移民のカール・フラッチ氏が製造した潜水艦は、その名を取って「フラッチ号」と名付けられた。
 チリは当時、南米を再び制圧しようとしていたスペインと戦争中で、活躍が期待されていた。

 全長12.5メートル、幅1.5メートルで、二つのスクリューを乗組員が人力で動かす仕組みで、2〜3ノットで航行できるはずだった。
 実験では潜航可能とされていたが、5月3日に実際に海に出た直後に沈んだという。
 フラッチ氏と息子、チリ人、フランス人ら乗組員計11人も海のもくずと消え、忘れ去られていたそうだ。

 調査は06年12月以来2回目になる。
 ロイター通信によると、ひ孫のギジェルモさんは曽祖父の挑戦の証しを見つけ、「チリの歴史に存在した『正義』を探し当てたい」と意気込んでいるそうだ。
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