2007年04月22日

墨打ちの起源か

 奈良県明日香村の特別史跡、高松塚古墳(7世紀末〜8世紀初め)の石室解体を進める文化庁は、側壁の5カ所から石室の設計段階に引かれた朱線が見つかった、と発表した。
 側壁を載せた床石の周辺部を3センチ低く削って壁画面をそろえる構造になっていたことなども確認し、同古墳が、石工や大工が墨糸などで線を引く現代の「墨打ち」にも通じる綿密な技法でつくられたことが分かったという。

 北端の天井石と北壁を石室から取り外した後の開口部を調査したところ、「飛鳥美人」で知られる女子群像が描かれた東壁(厚さ45センチ)と西壁(厚さ37.5センチ)の、それぞれ北壁と接していた面で幅1.5〜2ミリの朱線が2本ずつ見つかったという。
 朱線は東西壁とも、壁画面から21センチ外側の接合面上端部で縦に15〜16センチあり、さらに内側の石の縁に沿って十数センチ残っていたそうだ。

 もう1カ所の朱線は、北壁底面の西側で削った部分の延長線上に4センチほどあったという。
 北壁は、石を組み合わせるため壁画面の東西端を段状に2センチ削っていたそうだ。

 同様の朱線は、同村のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)や群馬県の南下E号墳(7世紀末)など奈良、群馬の石室5カ所で確認されているものだ。
 石に定規をあてて竹ヘラで朱色の墨を引き、それに沿って石を削るなどの加工をしたとみられるという。

 ただ、東西壁の接合面に残った朱線周辺に加工の跡はなく、当初削る予定だったが、何らかの理由で中止した可能性があるという。

 また、床石(幅1.55メートル)は、東西南北8枚の側壁を載せる周辺部が3センチ削られ、段差になっていた事もわかった。
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2007年04月19日

最古の森

 米ニューヨーク州立博物館などの研究チームが、同州にある約3億8500万年前の地層から、シダやソテツに似た高木のほぼ完全な化石を発見した。
 最古の森を示す貴重な証拠だという。
 化石の一部は、19世紀後半に切り株状の根元部分が見つかっていたが、どのような植物なのかわかっていなかった。
 研究チームは2004〜05年の調査で、枝と葉が茂っている先端部や幹の一部の化石を発見したという。
 この高木は約9メートルくらいまで成長したと推定されている。

 このような初期に現れた高木が、大気中の二酸化炭素を吸収することで、温室効果によって暑くなった地球の温度を下げた役割があったとしている。
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2007年04月18日

運慶の作品

 鎌倉時代の仏師・運慶の真作と48年ぶりに確認された大威徳明王座像が本日、神奈川県立金沢文庫(横浜市金沢区)で専門家らに初公開された。
 19日からの特別展で一般公開されるという。

 座像は称名寺光明院の所蔵で、これまで運慶の真作と確定した仏像は、国宝の奈良・東大寺南大門の金剛力士立像など5件のみで、このうち、1212年に造られた奈良・興福寺北円堂の弥勒仏座像などが最晩年のものとされていた。

 今回の座像は、納入文書に鎌倉時代初期の1216年に造られたと書かれており、運慶最晩年作の記録を塗り替えたものになる。
 一般公開は、6月10日までだという。
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2007年04月15日

従軍慰安婦に強制連行の証拠

 日本軍慰安婦問題をめぐり、東京裁判に提出された各国検察団の証拠資料の中から、占領支配したアジアの女性が日本軍に強制的に慰安婦にされたことを示す尋問調書などを、林博史・関東学院大教授(現代史)が確認した。
 17日に日本外国特派員協会で会見して公表する予定だとしている。
 裁判で証拠として採用されたもので、東大社会科学研究所図書館に所蔵されているのだそうだ。

 東京裁判には、日本軍によるアジア各地での住民・捕虜殺害など具体的な残虐行為を立証するために膨大な証拠資料が提出されたが、今回、林教授が確認したのは、オランダやフランス、中国など各国の検察団が提出した調書や陳述書などだという。

 インドネシアで、ジャワ島やモア島、カリマンタン(ボルネオ島)で女性たちが強制的に慰安婦にされたことを示す証拠資料が提出されたことが判明したほか、アジア各地で同様のケースがあったという。
 これまで、国立国会図書館所蔵の東京裁判関係資料から尋問調書の一部が確認されていた。

 オランダが提出した、ボルネオ島で海軍の情報機関にいた男性軍属に対する46年3月13日付の尋問調書では、日本人と親しくしていた地元女性が日本軍に拘束され、警備隊長に平手打ちをされ、裸で立たされる状況に触れて、取調官が追及する場面が記載されているという。

 彼女たちを拘束した理由について、男性軍属はこう答えたそうだ。
 「抑留したのは彼らを淫売屋に入れることができるための口実を設けるために警備隊長の命令でなされたのであります」 と・・・。

 さらに46年5月16日付の尋問調書では、ジャワ島の民間抑留者の収容所にいたオランダ人女性が強制的に慰安婦にされたことを証言している。

 44年1月28日、インドネシア人警察官が彼女を含め計7人の女性や少女を日本軍捕虜収容所事務所に連れていき、日本人に引き渡し、さらに車で小さな収容所に運ばれた事も記載されているという。
 同年2月3日に医師による健康診断を受けた際、日本人向けの「娼楼(brothel)」で働かされることを知ったという。
 さらにフランスが提出したベトナム人女性の口述書の抜粋には「日本人はフランス兵と一緒に生活していた私の同国人数人に、光安に設けた慰安所(brothel)へ一緒へ行くよう強制しました」とあるという。

 中国の「軍事委員会行政院」が46年5月27日付で作成した資料は日本軍の桂林での残虐行為に言及、「四方より女工を招致し、麗澤門外に連れ行き脅迫して、妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した」と記しているという。
 東京裁判の判決も桂林の残虐行為に触れた中で、「工場を設立するという口実で、かれら(日本軍)は女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した」と認定している。

 一連の資料について林教授は「これらは各国が作成した公文書であり、判決でも強制したことが事実認定されている。サンフランシスコ平和条約で戦犯裁判を受諾した日本には、これらの文書の意味は無視できないだろう」と話している。
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2007年01月11日

化石発掘現場公表

 兵庫県東部で見つかった国内最大級の草食恐竜などの化石について、同県立人と自然の博物館(三田市)は、地元住民向けの説明会を開き、発見場所を丹波市山南町の篠山川沿いに露出した地層だと明らかにした。
 同博物館はこれまで、盗掘を懸念して場所を「篠山、丹波両市にまたがる篠山層群」としか公表していなかったが、警備員を常駐させるなど盗掘を防ぐ体制を整えたことから公表に踏み切った。

 現場は、JR福知山線下滝駅から東へ約1キロの地点で、篠山川が流れる渓谷にある。
 川の右岸に高さ約4メートルのがけがあり、1億4000万〜1億2000万年前の白亜紀前期の泥岩の地層がむきだしになっている。
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2007年01月08日

戦時中の極秘文書発見される

 日中戦争で捕虜になった中国人兵士らを旧満州国(中国東北部)に連行し、建設現場で「特種工人」として働かせるため、旧日本軍が1943年に作成した極秘の取扱規定が見つかった。 中国・吉林省の公文書館にあたる档案館に残されていた関東憲兵隊の内部文書を、愛知県立大学の倉橋正直教授(中国近現代史)らが入手したものだ。
 賃金を各部隊が一括保管して本人に支払わないことを明文化するなど、不明な点が多い中国大陸での中国人強制労働の実態解明につながる内容になっているという。

 文書は旧満州に展開していた関東軍総司令部が43年7月に作成した「関東軍特種工人取扱規程」で、通則、輸送、使役、管理、監視及警戒、経理、報告の7章32項目と二つの付則からなり、表紙には「極秘」の印が押されている。

 冒頭の第1項では、中国北部戦線で捕虜にした国民党軍や共産党軍の兵士、匪賊と称していた反日武装勢力を「特種(特殊)工人」と定義し、軍の管理下にある飛行場や鉄道などの建設現場で使役する場合の必要事項を定めている。

 処遇については、特種工人の配属を受けた部隊長がその使役や管理を直接担当する・輸送の際は将校を輸送指揮官とするなど、管理・使役に関東軍の各部隊が直接かかわる仕組みになっている。

 賃金については、「特種工人に支給せず、部隊が一括保管し、日用品などの購入に充てる。なお余剰がある時は本人の帰還や解放時に交付する」と定めている。
 しかし、死亡した際に残されていた遺留金は埋葬費に充て、残額があれば遺族に送る・送金不能ならば残りの特種工人の福利施設に充ててよい・逃亡した場合は捜索費に充て、残った額は他の特種工人の警護施設に充当するなどの規定があり、賃金を直接手渡さずに捕虜を働かせることができる仕組みになっている。

 日本が1911年に批准した「ハーグ陸戦条約」は、捕虜を使役した場合は自国の陸軍軍人と同じ基準で賃金を支払うことなどを義務付けるとともに、捕虜の賃金から必要経費は控除できるとしているのだが、関東軍の取扱規程は、「特種工人」が諸外国から国際法上の捕虜と認定された場合でも、同条約を順守していると主張できる形を取りつつ、現場で強制労働を可能にする狙いがあったと見られる。

 旧満州国での捕虜の強制連行・強制労働をめぐっては、当時の統計資料をもとに、1941年5、6月から43年6月末までの2年間に民間企業と軍を合わせて約10万人が動員されたと推計する中国側の研究がある。
 敗戦時に関係資料の多くが散逸したり処分されたりしたため、全体像は不明となっている。

 一方、日本国内への中国人の強制連行については、外務省が敗戦直後の46年3月にまとめた「華人労務者就労事情調査報告書」で、43年4月〜45年5月に3万8935人が連行され、帰国までの死亡者数を6830人としている。
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2007年01月02日

法隆寺が史上初のCM登場

 世界最古の木造建築、奈良の法隆寺が1400年の歴史で初めてテレビCMに登場している。JR東海の奈良キャンペーンで、東京などで1月まで放映する予定だ。
 特定の企業にだけ協力はできないと、依頼はすべて断ってきたが、平城京遷都1300年に向けたPRに、東大寺などほかの奈良の5寺とともに協力を決めたのだそうだ。

 撮影は拝観時間中のみで、人けのない伽藍のシーンも、真夏の朝夕、参拝客の切れ目に撮られたという。
 寺の担当者は完成版を見て、「まるで法隆寺のCM」と満足げだそうだ。
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2007年01月01日

丹波で肉食恐竜や草食恐竜の化石発掘

 肉食恐竜の歯や草食恐竜のろっ骨とみられる化石が、丹波地域の中生代白亜紀前期(約一億三千万年前)の地層から発見されたことが分かった。
 兵庫県立人と自然の博物館(三田市)が分析を進めており、確認されれば、肉食恐竜としては近畿初の発見になり、草食恐竜では県内二例目となる。
 同博物館は一月下旬にも本格的な発掘に着手する予定で、国内有数規模の恐竜化石発見地となる可能性も高い。

 化石は二〇〇六年夏、アマチュア研究者が発見し、連絡を受けた同博物館が同年九月末に試掘した。
 関係者によると、見つかったのは、肉食恐竜の歯とみられる化石(長さ約一センチ)と、草食恐竜のろっ骨、背骨、尾の骨などの一部らしい化石だという。
 状態は良く、数種類の恐竜の可能性が高いとされる。

 ろっ骨は、首と尾が長く四本足で歩く草食恐竜ティタノサウルス類とみられ、アフリカ南東部のマラウイ共和国で発見された「マラウイサウルス」(全長約一〇メートル)に特徴が似ているが、新種の可能性もあるという。

 発見場所は、篠山盆地一帯に広がる地層「篠山層群」の近くで、白亜紀前期には大陸内部の湖だったとされ、恐竜の骨は土砂とともに流れ込んで堆積したと推定される。

 篠山層群の成り立ちや年代は、国内最大の恐竜化石発見地帯、手取層群(福井、石川、富山、岐阜県)と共通しており、以前から研究者の間では篠山層群での発見の可能性が指摘されていた。

 〇六年九月の試掘では、数日間で複数の化石を発見している。
 より広範囲を発掘すれば多数見つかる可能性が高まり、本格発掘が決まった。結果次第では恐竜の種類特定などが期待されている。

 発掘を前に、安全確保や盗掘防止などを目的に同博物館や丹波県民局、兵庫県警などが連絡協議会を設置する予定だという。
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2006年12月17日

ラストエンペラーの自叙伝完全版

 映画「ラストエンペラー」で知られる中国清朝の最後の皇帝、愛新覚羅溥儀氏の自伝「我的前半生(わが半生)」が、大幅に加筆した完全版として来年1月に出版されることになった。
 極東国際軍事裁判(東京裁判)での自らの偽証を明確に謝罪し、日本軍と満州国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪をなすりつけたと後に反省したことなど、これまでの1964年版では削除・修正されていた部分が盛り込まれ、自己批判色の強い内容となっている。
 溥儀氏は遼寧省撫順にある戦犯管理所に収容中の57年から自らの罪を語る形で「わが罪悪の半生」の執筆を開始した。
 「わが半生」はこれをもとに、中国当局や専門家が内容を削除・修正し、64年に出版された。すでに187万部近くに上り、日本語訳も出ている。
 今回出版されるのは、当時削除された16万字近い内容を加えるなどしたものだという。

 東京裁判では、溥儀が日本の傀儡政権「満州国」の執政に就任したことについて、日本人戦犯の弁護側が「自発的だったのではないか」と主張し、その証拠として溥儀が南次郎陸相(当時)にあてた「宣統帝親書」を示した。
 裁判に証人として出廷した溥儀氏はこれを「偽造だ」と否定した。

 完全版では、うそをついたために日本の行為の徹底的な解明を妨げたと認めて「私の心は今、彼(キーナン検事)に対するおわびの気持ちでいっぱいだ」と明確に謝罪している。
 64年版では「証言を思い出すと非常に遺憾」となっていた。

 また45年のソ連軍進攻の際、日本軍への支援を満州国閣僚らに命じたことについて「すべてを関東軍と吉岡のせいであるかのようにしたが、事実はすべて私が自発的に行ったことだった。法令でも命令でも私が自発的にやらなければ、考えられないものだ」と告白している。
 中国政府による戦後の尋問でも、当初は、「(中国)政府をだました」という。

 64年版でも満州国「皇室御用掛」だった吉岡への責任転嫁について触れていたが、完全版は命令に対する自らの関与を直接認め、強く反省する形になっている。

 中国紙の報道によると、出版元である北京の群衆出版社は資料整理をしていた04年、64年版の削除・修正前の原稿を発見。「(削除や修正は)過去の様々な理由によるものだが、今、その内容は溥儀の真実の生活を理解し、歴史を認識するうえで研究価値が高い」と判断し、出版に踏み切ったとしている。
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2006年12月06日

日本書紀と気象

 複数の筆者が書いたとされる日本書紀で、天文に関する記述が実際の観測と合う筆者と、そうではない筆者の2タイプいることが、天文学の研究でわかってきた。
 書紀は筆者により表記の仕方が違うとされるが、内容の信頼度も差があるようだ。

 河鰭公昭名古屋大名誉教授と谷川清隆国立天文台助教授らは、書紀の天文現象が中国の記録や計算結果と合うかどうか調べているそうで、以前に書紀の天文記録の一部が事実だと示したが、筆者による違いにも着目したという。

 京都産業大の森博達教授(中国語学)は、日本書紀全30巻を、万葉仮名などの使い方で、筆者A群(14〜21、24〜27巻を担当)、筆者B群(1〜13、22、23、28、29巻)、不明(30巻)に分類している。
 Aは、当時の日本の社会常識に疎いことなどで渡来中国人、Bは、漢文の執筆能力が低いことなどで日本人(日本生まれの渡来人子孫も含む)との推測だ。

 河鰭さんらの結果を合わせると、Aの巻に出てくる643年の月食が、日本では見られないものだったという。
 彗星や超新星を表す記述は中国では記録されていないなど、事実と確認できる天文現象はない。逆に天智天皇の代に中国で見えた彗星2個が記録されていない。

 Bの巻にある628年から681年の5回の日食は、年代の誤記とみられる1例はあるが、いずれも日本で観測できたと認められたという。
 月食と火星食各1例も事実で、684年のハレー彗星など6個の彗星も、5個が中国の記録と一致したのだ。

 30巻には6例の日食があるが、暦から予報されたもので日本では見えない。
 逆に日本で見えたはずの日食はなかったという。

 こうしたことから、少なくとも天文記録ではB群の信頼性が高く、他は実際の目撃記録によらず書いたようだ、という。
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2006年12月03日

ダビンチの母はアラブ系か

 イタリア中部キエーティ大の人類学研究所は、レオナルド・ダ・ビンチ(1452〜1519)の左手人さし指の指紋を特定したと発表した。
 指紋には、唾液も付着していると見られ、前夜に食べた料理の内容が解明できるほか、ダ・ビンチの祖先について調べる手がかりともなるという。

 AP通信によると、同大の研究チームは、ダ・ビンチが残した52枚の書類などから約200点の指紋を写真撮影し、それらを約3年にわたり分析・調査し、ダ・ビンチの指紋を割り出したという。

 研究チームは、ダ・ビンチの指紋が「アラブ人の指紋の60%に見られる形状だ」と指摘し、ダ・ビンチの母親が中東系だった可能性があるとしている。

 ダ・ビンチの母親をめぐっては、当時のビザンツ帝国の首都コンスタンチノープル(現イスタンブール)から、ダ・ビンチの生まれ故郷である伊トスカーナ地方に奴隷として渡って来たとの説があり、指紋はこの説を裏付ける証拠となり得る。

 地元の専門家によると、ダ・ビンチは食事中や旅行中に創作活動をすることが多く、指が常に汚れていたという。
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原爆ドームを保存するために・・・湯川博士の陳情書

 原爆ドーム(広島市中区)の永久保存を求めて、ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹氏や、平和記念公園を設計した建築家の丹下健三氏ら8人が1965年に連名で出した陳情書のうち、6枚が市議会事務局に残されていることがわかった。
 ドームを原爆の惨禍を伝える〈記念聖堂〉と位置づけ、核兵器廃絶を訴えた内容で、市公文書館は「ドーム保存のきっかけとなった歴史的な資料」として、4日から、約40年ぶりに複写を公開するとしている。

 「原爆ドーム保存要望書」と題された陳情書は広島市議会議長にあてたもので、湯川氏や丹下氏以外にも、当時、神戸市長だった原口忠次郎氏や国会議員らが名を連ね、それぞれ別々の書類に押印している。
 ドームを「被爆都市広島を表徴する記念聖堂であつて世界における類例のない文化財」と評価し、「崩壊寸前の状態。速やかに補修工事を」と求めていた。
 当時は、「恨みや憎しみを思い起こさせる」などという「ドーム撤去論」もあったが、陳情書をきっかけに保存の機運が高まり、翌66年に市議会が決議。国内外から寄付も集まり、67年から保存工事が始まった。

 湯川氏は54年に米国が行った水爆実験で起きた第五福竜丸事件に衝撃を受け、反核・平和運動に力を注いだといわれる。市公文書館は「多忙な方ばかりなので、集まることができず、別々に押印したのだろう」としている。
 同館で開かれる企画展で、来年2月28日まで公開される。
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2006年12月02日

シドニー沖で発見されたのは日本の特殊潜航艇だった

 オーストラリア環境・自然文化遺産省は昨日、シドニー沖海底で見つかった潜航艇とみられる残骸は、第2次世界大戦中の1942年にシドニー港を攻撃後、行方不明になっていた旧日本軍の特殊潜航艇と確認した、と発表した。

 豪海軍の専門家らが調査していた。
 同省は、残骸の周囲500メートルを保護区域に指定し、今後の保存方法などを検討することにしている。

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2006年11月03日

カガナイアスハクサンエンシス

 石川県教育委員会は、2001年に白山市の化石壁で見つかった白亜紀前期(約1億3000万年前)の海生爬虫類「ドリコサウルス」の化石が16日に英国古生物学会から正式に新種に認定されると発表した。

 新種はドリコサウルスとしては世界最古の生物で、石川県にちなみ学名は「カガナイアス ハクサンエンシス」と名付けられた。

 「加賀の水の妖精、白山に住まう」という意味を込めて命名されたカガナイアスは白山市の桑島化石壁から発見され、04年に新種の爬虫類と判明していた。
 市などと化石の共同調査を手掛けた真鍋真・国立科学博物館主任研究員らが論文をまとめ、英国古生物学会誌に掲載されることになったという。

 新種発表時にはヘビの祖先とみられていたが、その後のDNA鑑定などの結果、海で活動した中生代の大型トカゲとの関係が深いことが分かったという。

 真鍋氏は「学術的には注目度が高い成果。(この新種を)皆さんのお国自慢の中に加えてほしい」と話している。
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2006年10月19日

弥生のエクスカリバーか

 弥生時代中期末−後期初め(紀元前後)の集落跡とみられる愛媛県今治市の朝倉下経田遺跡で、青銅祭祀具「平形銅剣」が垂直に突き刺さった状態で見つかり、県埋蔵文化財センターが本日発表した。

 銅剣は集落の外で横にされた状態で見つかるのが普通で、突き刺さった状態の発見は例がないという。
 同センターは「中世ヨーロッパの聖剣・エクスカリバーを連想させる特異な状態だ。
 突き刺した剣の周りで踊ったり拝んだりしたのではないか」としている。
 弥生祭祀の具体的な様子を探る貴重な発見となりそうだ。

 銅剣は幅4・6センチで、真ん中あたりから刃先まで約21センチ分が残っていた。
 直径約35センチ、深さ約30センチの穴に縦に埋まっており、柄など上になっていた部分は後世の整地で折れたらしい。

 銅剣を取り囲むように少なくとも6棟の竪穴住居跡があり、集落の中心部で、祭祀を営む特別な場所だった可能性が高い。
 銅剣の周りだけ土の色が違うため、木の容器に入れて埋めていた可能性もあるという。

 銅剣は朝鮮半島から武器として伝わり、間もなく祭祀用になったが、具体的な使われ方は分かっていない。
 エクスカリバーは欧州の伝説に残る聖剣で、岩に突き刺さったままアーサー王以外抜けなかった。
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2006年10月14日

4メートルもある駱駝がいた

 背の高さが約4メートルもある巨大なラクダの化石がシリア中部の約10万年前の地層で発見された。
 現在のラクダの2倍近い大きさで、ゾウやキリン並みの体格だ。
 発掘したスイスとシリアの合同チームは「これほど大きなラクダの化石は例がない」と驚いている。
 見つかったのは関節の形が保存された足の骨など40個余りの化石で、未発見のヒトコブラクダの仲間と推定され、幅広の足の骨は、今のラクダに比べ、かなりがっしりした体格だったことを示しているという。

 近くからは現代人(現代型ホモ・サピエンス)か、ネアンデルタール人とみられる歯などの化石と石器類も見つかっており、人間の狩りの獲物になっていたらしい。

 中東地域に生息するヒトコブラクダは、考古学資料などから6000〜7000年前に家畜化されたと推定されている。
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2006年10月06日

竜馬とおりょう

 幕末の志士、坂本竜馬(1835〜1867年)の妻「おりょう(竜)」の没後100年を記念して、神奈川県横須賀市の市民団体「よこすか龍馬会」が2人の座像を作り、おりょうが眠る信楽寺で本日、報道関係者に公開した。
 8日に墓前祭を行い一般公開するという。

 本堂に据えられた座像は等身大(高さ約90センチ)でクスノキ製だという。
 おりょうは若いころに撮ったとされる写真をモデルにしたという。

 構想から約1年半かけて彫った同市の仏師梶谷叡正さん(56)は「命懸けで変えようとした日本の現在の姿を竜馬が見詰め、おりょうが寄り添うイメージ」と話す。

 おりょうは医師の娘として京都で生まれ、竜馬と結婚。
 竜馬の暗殺後は各地を転々とし、1875年に商人の西村松兵衛と再婚した後、晩年を横須賀で過ごし、墓碑などによると1906年に66歳で亡くなったとされる。

 同会の磯野淑紀会長(68)らの調査で、松兵衛も同寺に埋葬されていることが判明し、2人の座像とともに同会が作った松兵衛の位牌も安置する。

 新原千春住職(45)は「魂が宿る座像をお参りし、竜馬やおりょうと心を通じ合わせてほしい」と話している。
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2006年10月05日

滋賀で大規模遺跡

 大津市関津1丁目の関津遺跡で8世紀半ばから9世紀半ば(奈良時代−平安時代前期)にかけての大規模な道路跡が見つかった、と滋賀県教委が、発表した。

 道幅は約18メートルと都の大路に匹敵する大きさで、県教委は、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(764年)の舞台になったとされる田原道の跡ではないかとみている。
 田原道の遺構が確認されたのは初めてだ。

 田原道は、城陽市付近から京都府宇治田原町を抜け、瀬田川沿いを北上し、東国へ向かう道とされる。
 恵美押勝の乱の際、討伐軍が通ったと「続日本紀」に記されている。

 道路跡は、幅約18メートル、両側には幅約1−3メートル、深さ深さ10−30センチの側溝があり、南北に約250メートル延びていた。
 道に沿うようにして約30棟の建物群が確認され、都の遺跡などから出土する龍のような形をした硯1点や土器類なども見つかった。
 県教委は、その規模などから国家が建設し、管理に当たった官道ではないかとみている。

 また、道路跡を北へ約4・5キロ延長すると、当時の役所・近江国庁跡があり、その西側に位置する瀬田唐橋を渡ると、藤原仲麻呂が造営を計画したとされる保良宮の推定地に至る。

 発掘にかかわった県文化財保護協会の藤崎高志さんは「田原道は山道で、整備されていないとされていたが、今回の発掘で大規模な道であったことが判明した。(奈良時代に整備された幹線道路の)東山道の可能性もある。保良宮の朱雀大路だったのではないかなど想像も膨らむ」と話している。
posted by ひで at 22:35| 奈良 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月24日

バーミヤン遺跡で新たな発掘

 アフガニスタン中部にある国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産バーミヤン遺跡で、仏僧の礼拝などの場として使われていた5−6世紀の「塔院」跡や、高さ3メートルはあったとみられる10体以上の立仏像のひざ下部分が発見された。
 同遺跡で立仏像が新たに見つかるのは極めてまれだという。
 塔院跡は一帯にあった大規模な仏教施設の一部と考えられ、バーミヤンの仏教を研究する上で貴重な発見となりそうだ。

 アフガン政府考古局とともに調査に当たったアフガン考古学保護協会のゼマリアライ・タルジ代表は「7世紀にバーミヤンを訪れた(三蔵法師として知られる)玄奘三蔵が『大唐西域記』の中で見たと記した幻の涅槃像が付近にあるかもしれない」と話している。

 塔院跡があったのは、旧タリバン政権が破壊した東大仏立像跡の東約100メートル付近だ。
 中心部に主仏塔の一部が残っており、この仏塔を囲むように、小型の仏塔や立仏像のひざ下部分が配置されていたという。
 付近では一連の調査で、今回の立仏像と別に大小30以上の仏頭も見つかっている。

 しっくいで覆われた主仏塔側面の柱状の装飾部分にはギリシャ文化の影響を受けた植物の葉の彫刻が施されていた。
 奉献ストゥーパ(小型のもの)は階段状の構造で、同代表はバーミヤン独自の様式としている。

 タルジ代表は昨年の調査で、塔院跡の東側に僧侶らの生活の場である僧院の跡を確認し、今回、6世紀ごろの別の仏塔の基壇部分も発掘した。
 約30メートル四方の大型のものとみられるという。
posted by ひで at 21:28| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月19日

戦争は世界遺産も壊します

 国連教育・科学・文化機関(ユネスコ、本部パリ)は、約1か月にわたったイスラエル軍とレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラ間の戦闘の影響で、レバノン国内の世界遺産3か所が緊急に修復が必要な状態になっていると発表した。

 ティールの都市遺跡、ベカー高原バールベックの神殿遺跡、地中海沿岸ビブロスの神殿・都市遺跡の3つで、フェニキア、ローマ、ビザンチン時代の遺構としてユネスコの文化遺産に登録されている。

 ティールでは、イスラエル軍による空爆の振動で古代ローマ時代の地下墓の壁画が地上に落ち、一部が壊れた。
 バールベックでも空爆の影響で、神殿の一部が傷んだ。
 ビブロスでは、空爆で付近の火力発電所から重油が流出、遺跡の一部に付着した。

 ユネスコは7万ドル(約826万円)をレバノンの世界遺産の修復作業にあてる方針だが、ビブロスでの重油除去だけで10万ドル(約1180万円)が必要で、世界各国に財政支援を呼びかけている。

 世界遺産は全人類共通の遺産のはず!是非保存を!
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