2006年09月18日

ツタンカーメンは薄化粧していた

 古代エジプト文明の象徴ともいえるツタンカーメン王の黄金のマスク。
 そのまばゆい輝きは、純度の高い金の上に、銀を混ぜた純度の低い金を塗ることで作られていたことが、早稲田大学の宇田応之名誉教授(考古・歴史科学)らの調査で明らかになった。
 エジプト考古庁と共同で実施した世界初の科学分析の結果として16日、早大であったシンポジウムで報告されたという。
 宇田さんは独自に開発したX線複合分析装置を、マスクを所蔵するカイロのエジプト考古学博物館に持ち込み、6月15日から5日間、調査したという。
 その結果、マスクの地金は23金程度の純度の高い金だが、表面には銀を混ぜた18金から21金程度の金がごく薄く塗られていることがわかった。
 金は純度が高くなるにつれ赤みが増し、銀を混ぜると白くなる特徴がある。
 宇田さんは、王の若さを強調し、輝きを美しく見せるため、薄化粧するように、銀を混ぜた合金を粉末にしてニカワで溶き1マイクロメートル以下の薄さで塗った、と結論づけた。

 また、マスクのずきんにある青色の模様も、分析の結果、これまでまったく報告例のない顔料である可能性が高まったという。
 ガラス化させたものなど数種類の原料を調合したものとみられるという。

 宇田さんは「古代エジプト人は、美を求めるため独自の色を作り出すなど様々な工夫を凝らしていることがわかった。想像を絶するほどの美意識が、あのマスクの輝きを作り出した」と話している。
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2006年08月26日

関東大震災の様子データベース化へ

 家屋倒壊や火災などで10万人以上が犠牲になった関東大震災(1923年)の実態を効率的に伝えようと、視覚に訴え具体的な情報を伝えやすい写真や図などを集めたデータベースを、神奈川大の北原糸子・非常勤講師らが作成し、本日から、横浜市で開かれる立命館大学・神奈川大学21世紀COEプログラムの講演会で発表するという。

 関東大震災について、最近、被害資料の見直しが進んでいるが、北原さんらは、震度分布図や陸軍が撮影した航空写真などばらばらの資料をデジタル化し、現在の地図に重ね合わせて、地点を特定して参照できるようにしたのだそうだ。
 震災直後の9月6日から15日に陸地測量部が現地調査を行った「震災地応急測図」も収めた。
 当時、地図の一部は軍事機密の「秘図」として一般への発行が禁止されていた。
 応急測図は、秘図の正確な写しをもとに、焼失した地区、倒壊家屋、避難所、壊れて渡れなくなった橋、道路の陥没、トンネルの崩落、鉄道の不通区間などが正確に記載されている。国土地理院が保管していた。

「写真をばらばらに見るだけではわからない全体像がわかるデータベースにした」と北原さんは話している。
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2006年08月19日

ネアンデルタール人

 現生人類に最も近いといわれるネアンデルタール人のゲノム(遺伝情報)の解読に、ドイツのマックス・プランク研究所と米国のバイオ企業が挑んでいる。
 化石人骨からDNAを抽出し、近縁とみられるヒト、チンパンジーなどのデータと比較して、進化の度合いをつきとめるのだという。
 ネアンデルタール人は19世紀に欧州の広範囲で化石がみつかり、当初は人類の祖先とされていた。
 しかし、現人類より、脳の容量が多く、彫りが深い顔立ちであったため、現生人類(新人)に対して旧人と呼ばれ、進化の途上にあると考えられたのも無理ではないのだという。
 しかし9年前、細胞質内のミトコンドリアという小器官のDNAの比較から、ネアンデルタール人は現生人類の直接の祖先ではなく、約60万年前に共通の祖先から分かれた人類だと判明し、どうやらネアンデルタール人は現生人類に滅ぼされた様である事がわかったというのだ。
 今回は、細胞の核内に含まれるDNAを対象に研究が行われる予定で、うまくいけば、なぜ人類が高度な知能を身につけられるようになったかなど、人の人たるゆえんが明らかになるかもしれないと期待されているという。
 
 私たちが学んだ事が次々に塗り替えられてゆく・・・。
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2006年08月16日

これってカッパだよね

 福岡県宇美町の室町時代の正楽遺跡(14世紀後半〜15世紀中ごろ)からぎょろ目に幅広い口を持った生き物を表現したとみられる土器が出土したそうだ。
 カッパ、鬼、獅子、竜、蛇など諸説紛々だ。
 同町立歴史民俗資料館で展示され、愛嬌ある形が子供たちに人気なのだそうだ。
 素焼きの器に3本程度あった脚の1本とみられ、高さ約5.4センチだという。
 竹のへらのようなもので目と口が刻まれているそうだ。

 カッパ説を採る同館の平ノ内幸治館長は「カッパであれば具象的な造形としては、かなり古い例になる。職人が遊び心で作ったのかもしれない」と話すが、爬虫類類か両生類と指摘する声もあるという。

 私個人としては河童であって欲しいな・・・。
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2006年08月14日

恐竜の町・・

 中国東北地方の山あいに世界の恐竜学者が注目している街があるそうだ。
 90年代以降、恐竜から鳥類への進化の過程に位置するとみられる「中華竜鳥」など、貴重な化石が続々と発見されている遼寧省朝陽市がそれだ。
 市側は博物館建設などを進めて「化石の街」を海外に売り込み、投資誘致に結びつけたいと懸命な一方で、化石の大量発見は、密輸や乱掘といった問題も生じさせているという。
 高さ10メートルほどの石壁が室内にそびえ立っているのは、朝陽市北部、北票の山中につくられた化石の発掘現場をそのまま展示した博物館で、足元には魚などの黒い化石がそのまま見えたという。
 展示準備が完全には整っておらず開館時期は未定だが、「こうした博物館を市内に三つ設ける計画です」と市関係者は胸を張ったそうだ。
 同市は人口340万人で、北京から560キロ、瀋陽から300キロに位置するが、定期航空便もなく、沿海部に比べ発展の速度は遅いという。
 農業と牧畜業が中心の町だ。
 その町の自慢は貴重な化石の多さだ。
 この地は以前は湖だったと考えられており、湖底に積もった泥がゆっくり時間をかけて固まり、化石の保存につながるきめ細かい地層が生まれたとみられている。
 90年代半ば、鳥の先祖とされた始祖鳥より現在の鳥に近い種の化石が、白亜紀前期(約1億4000万年前〜9600万年前)とみられる地層で発見された。
 これが「鳥の直接の祖先は?」との議論を世界の専門家の間に巻き起こし、その後も原始祖鳥(97年)、尾羽鳥(98年)など貴重な化石が次々と見つかっている。
 同市はこれを利用して街の知名度を高め、経済発展に結びつけたいとの姿勢だという。
 鮑暁華・副秘書長は「化石だけでなく、投資誘致も促進させたい」と訴える一方、日本の商社を招待するなど、働きかけにも力を入れるとしている。
 一方、化石の豊富さは、乱掘の問題も生んでいるという。
 「山に入ればどこでも簡単に化石が見つかる」と地元関係者が語るように、盗掘の取り締まりは困難なのが現状だ。
 市場では数百円で朝陽の化石が入手可能とも言われる。
 当局は市内46平方キロを保護区に指定し、乱掘防止に努めるほか、税関での取り締まりを強めるという。
 瀋陽の税関当局が過去3年間に押収した「密輸化石」は2364個で、段ボール33箱分の化石を国外に持ち出そうとした韓国人グループが捕まり、懲役10年などの判決を受ける事件も起きている。
  昨今またもや湧き出してきた恐竜ブーム・・・。その余波がこんな場所にも起きてるんですね!
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2006年08月12日

ハマのマリー

 女優の五大路子さん(53)が演じる一人芝居「横浜ローザ」が今年も終戦記念日に合わせ、12〜15日に横浜市内で開かれる。
 この芝居のモデルとなったのは「ハマのメリーさん」だ。
 戦後、横浜の街に娼婦として立ち続け、昨年84歳で亡くなった。
 没後1年の追悼公演になり、五大さんは「彼女の命の光を伝えていきたい」と話している。
  芝居は、雑居ビルエレベーターホールの場面から始まる。その廊下で寝起きする老女「ローザ」は80歳を過ぎても厚化粧で街角に立つのだ。「パンパン」と呼ばれた進駐軍相手の娼婦として始まった戦後の人生を独白していくというストーリーだ。
 実際のメリーさんも白い歌舞伎のような厚化粧に白いドレス姿で、70歳過ぎまで横浜・伊勢佐木町かいわいの街頭に立った。
 晩年、ビル内のパイプいすを寝床代わりにしていたという。
 本人は過去を多く語らなかったが、戦後の横浜にいた外国人相手の娼婦の一人だったと言われている。
 五大さんが初めてメリーさんを見たのは91年の事だという。 
 異様な外観に驚いたが、「凜とした目で誇りを感じた」という。
 「彼女の人生を知りたい」と知人を訪ね歩き始めたのだそうだ。
 メリーさんが通った化粧品店では、昔は最高級品を買っていたが晩年は1瓶500円の白粉を使っていたこと。定住先が無く、なじみのクリーニング店にドレスを預けて着替えていたこと等がわかったという。
 「時代の苦しみを受けながら、メリーさんはいつもほほえみを絶やさなかったそうです。人間ってすごいと思わされた」と五大さんは語る。
 数年がかりの取材記録を脚本家の杉山義法さん(故人)に送ったところ、杉山さんは「日本の戦後史として彼女の人生を書こう」と言い、「横浜ローザ」が生まれたのだという。
 初演の前年になる95年には、本人にも会ったそうで「あなたの芝居をやります」と伝えると、「そう」と、ただ一言上品な笑顔で答えたという。
 公演は同市中区新港1丁目の横浜赤レンガ倉庫1号館(045・211・1515)で行われるそうだ。

 筆者も高校時代に何度かメリーさんを見かけたことがある。最初は気持ち悪い(失礼)というイメージだったが、その歴史を知るにつれ尊敬にも似た気持ちになったのを覚えている・・・。

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2006年08月11日

日航ジャンボ機事故から21年

 日航ジャンボ機の墜落現場となった群馬県上野村・御巣鷹のふもとを流れる神流川で本日、灯ろう流しが行われた。
 川辺には遺族ら約300人が訪れ、事故で亡くなった歌手坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」のメロディーが流れる中、鎮魂の祈りに包まれたという。
 あれから21年の歳月が流れたんですね・・・・。

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2006年08月06日

広島原爆記念日 

 被爆から61年となる「原爆の日」を迎えた本日、広島市中区の平和記念公園で「原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」(平和記念式典)が開かれ、参列者が犠牲者の冥福を祈った。
 今年は国際司法裁判所が「核兵器の使用・威嚇は一般的に国際法に反する」と判断した勧告的意見から10年の節目だが、核保有国の核軍縮は進まず、核拡散は止まっていない。
 秋葉忠利市長は平和宣言で「世界政治のリーダーたちは(核廃絶を求める)声を無視し続けている」と核保有国の姿勢を厳しく批判した。
 「核兵器からの自由をもたらす責任は今や、私たち世界の市民と都市にある」として核廃絶に向けた世界的な連帯を訴えた。
 式典は午前8時に始まり、小泉首相も参列した。
 この1年間に死亡が確認された被爆者5350人の名前を記した原爆死没者名簿を、秋葉市長と遺族代表2人が、原爆死没者慰霊碑に納めたという。
 これで死没者の総数は24万7787人になった。
 今年は初めて「氏名不詳者多数」と記した名簿も納められた。
 いまだに氏名さえ分からない遺骨が数多くあり、すべての原爆犠牲者を追悼する意味を込めたのだという。

 式典会場に「祈りの曲」が流れると、被爆者代表らが献花した。
 原爆投下時刻の午前8時15分、祖父を亡くした遺族代表の米倉正明さん(46)と、祖母が被爆したこども代表の小学6年生、三登百合子さん(11)が平和の鐘を打ち鳴らし、全員で1分間の黙祷をささげた。
 核兵器保有国の数が増したことを踏まえ、「人類は今、すべての国が(核兵器の)奴隷となるか、自由となるかの岐路に立たされている」と厳しく現状を批判し、「核兵器の持つ唯一の役割は廃絶されることにある」として、「2020年までの核兵器全廃」を目標に、広島、長崎市が先導する「平和市長会議」の加盟都市(119カ国・地域の1403都市)が中心になり、核保有国に核軍縮に向けた「誠実な交渉義務」を果たすよう求める取り組みを始めることを明らかにした。
 続いてこども代表の小学6年新谷望君(12)と、米国生まれで日米の国籍を持つ小学6年スミス・アンジェリアさん(12)が「平和への誓い」を読んだ。

 二度とこんな悲劇は繰り返してはならない・・・。
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2006年08月04日

スペインで世界初のかえるの化石発掘

 米自然史博物館やアイルランド・ダブリン大などの国際チームが世界で初めて、骨の内部に骨髄組織が残っているカエルなどの化石をスペイン北東部の約1000万年前の地層から発見したと発表した。
 骨髄は化学成分が良好に保存され、たんぱく質やDNA(遺伝子)を抽出したり、血液に関係する生理・代謝について新しい知見が得られると期待されている。
 脊椎動物の骨には血球などのもとになる骨髄が詰まっているが、こうした軟らかい組織は化石として残りにくいという。
 研究チームによると、骨髄が残っていたのは、カエル、オタマジャクシの化石と、イモリに似たサラマンダーの化石だという。
 計150体の化石を分析したところ、その約1割に骨髄が含まれていたという。
 骨髄の成分は分解されたり、化学変化した可能性が高いが、一部の骨髄は赤みを帯びており、もとの成分を豊富に残した化石もあると、研究チームは期待しているという。
 一帯はかつて亜熱帯の湖で、カエルの輪郭まで残した化石など、保存の良い化石が多数見つかることで知られていた。

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2006年07月20日

昭和天皇陛下のご苦悩

 昭和天皇が死去前年の1988年、靖国神社にA級戦犯が合祀されたことについて、「私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと発言したメモが残されていることが分かった。
 当時の富田朝彦宮内庁長官が発言をメモに記し、家族が保管していたものだという。
 昭和天皇は靖国神社に戦後8回参拝されたが、78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝していらっしゃらなかった。
 A級戦犯合祀後に昭和天皇が靖国参拝をしなかったことをめぐっては、合祀当時の側近が朝日新聞の取材に対し合祀に対して不快感を抱いていた、と証言しており、今回のメモでその思いが裏付けられた格好になる。
 メモは88年4月28日付で、それによると、昭和天皇の発言として「私は或る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白取までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記されているという。
 これらの個人名は、日独伊三国同盟を推進し、A級戦犯として合祀された松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使、66年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取ったが合祀していなかった筑波藤麿・靖国神社宮司を指しているとみられる。
 メモではさらに、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか。易々と。松平は平和に強い考があったと思うのに。親の心子知らずと思っている」と続けられている。
 終戦直後当時の松平慶民・宮内大臣と、合祀に踏み切った、その長男の松平永芳・靖国神社宮司について触れられたとみられる。
 また昭和天皇は続けて「だから私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と述べた、と記されている。
 個人的な悪口などをおっしゃったことなどない昭和天皇が、かなり強く、A級戦犯合祀に反対の意思を表明しているのに驚かされる。
 昭和天皇が靖国神社に行かなくなったこととA級戦犯合祀が関係していることはこれまでも推測されてはいたが、それが裏付けられたということになる貴重な資料だろう・・。
 靖国神社への戦犯の合祀は1959年、まずBC級戦犯から始まった。
 その後A級戦犯は78年に合祀されたのだ。
 大きな国際問題になったのは、戦後40年目の85年で、中曽根康弘首相(当時)が8月15日の終戦記念日に初めて公式参拝したことを受け、中国、韓国を始めとするアジア諸国から「侵略戦争を正当化している」という激しい批判が起こった。とりわけ、中国はA級戦犯の合祀を問題視した。
 結局、中曽根氏は関係悪化を防ぐために1回で参拝を打ち切ったが、A級戦犯の合祀問題はその後も日中間を中心に続いている。
 昭和天皇は、戦前は年2回程度、主に新たな戦死者を祭る臨時大祭の際に靖国を参拝していた。
 戦後も8回にわたって参拝の記録があるが、「神道指令」が出た後、占領が終わるまでの約6年半は一度も参拝がなかった。
 52年10月に参拝を再開するが、その後、75年11月を最後に参拝は途絶えた。
 ちなみに今の天皇陛下は89年のご即位後、一度も参拝したことがない。
 首相の靖国参拝を定着させることで、天皇「ご親拝」の復活に道を開きたいという考えの人たちもいる様だ。
 自民党内では、首相の靖国参拝が問題視されないよう、A級戦犯の分祀が検討されてきた。
 いったん合祀された霊を分け、一部を別の場所に移すという考え方で、遺族側に自発的な合祀取り下げが打診されたこともあるが、動きは止まっている。
 靖国神社側が、「いったん神として祭った霊を分けることはできない」と拒んでいるのもその原因の様だ。
 ただ、分祀論は折に触れて浮上している。
 99年には小渕内閣の野中広務官房長官(当時)が靖国神社を宗教法人から特殊法人とする案とともに、分祀の検討を表明した。
 日本遺族会会長の古賀誠・元自民党幹事長も今年5月、A級戦犯の分祀を検討するよう提案し、けじめをつけるため、兼務していた靖国神社の崇敬者総代を先月中旬に辞任している。

 いずれにしても昭和天皇のお考えは合祀反対のお立場であった事は疑う余地はなく、現代の戦争にいった経験もない政府首脳が何を言ったところで無駄で、戦争の最大の責任者であり最大の被害者であった昭和天皇のお考えを尊重させていただいてはどうだろう・・・。
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2006年07月14日

恐竜の世界でも中年の危機・・・

 最大級の肉食恐竜ティラノサウルスは、寿命の半分ほどのいわば「中年期」から、命を落とす個体が急増したらしい。
 米フロリダ州立大などのチームが、骨の化石を分析してこんな結論をまとめ、14日発行の米科学誌サイエンスに発表した。
 分析した化石は、カナダ西部アルバータ州で22体分がまとまって発掘されたティラノサウルスの仲間、アルバートサウルスの骨だ。
 年輪のような骨の成長線を調べた結果、推定2―28歳とさまざまな成長段階の個体が含まれていることが判明し、チームは今回の結果にこれまでのデータを加え、年齢ごとの生存率を推定したのだという。
 それによると、この恐竜は生まれて間もない時期に60%は死ぬが、2歳(体長約2メートル)まで生き延びるとその後13歳まで生存率はあまり減らない。
 ところが、繁殖可能になるとみられる14歳から生存率が急激に落ち、28歳程度まで生きて、体長約10メートルに達するのは全体の2%しかいないことが分かった。

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2006年07月03日

戦艦大和の出撃前の写真発見される

 太平洋戦争末期の山口県徳山沖で、沖縄海上特攻作戦に向けて準備中の戦艦大和をとらえた米軍の偵察写真が米国立公文書館で見つかり、広島県呉市の大和ミュージアム(市海事歴史科学館)が発表した。
 出撃の5時間前の写真という。
 国内での最後の姿をとらえた資料とみられ、年内に同館で展示される予定だそうだ。
 同館の依頼を受け、「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議・米軍資料研究会」代表責任者で、山口・徳山高専教授の工藤洋三さん(56)が今年3月に探し出したものだという。
 写真は45年4月6日午前10時、米軍のB29偵察機が高度約9300メートルから撮影したもので、一緒に特攻に向かった巡洋艦矢矧なども写っていた。
 写真説明には「戦艦『大和』級1、重巡洋艦1、駆逐艦6」とあった。
 同館によると、沖縄特攻の対空戦に備え、大和が主砲塔などに機銃を増強した様子が分かるという。
 大和を旗艦とする第2艦隊は撮影直後の6日午後に出撃し、大和は翌7日午後、東シナ海で米軍機の攻撃を受けて沈没した。


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2006年06月28日

ロシア残留生活を送る中川氏が妹と61年ぶりに再会果たす!

 終戦後、サハリン(樺太)で消息不明になり、5年前にカスピ海沿岸のロシア・カルムイキア共和国で生活していることが分かった山形出身の中川義照さん(79)が、妹の千葉豊子さん(75)=北海道美唄市=と61年ぶりに、現地で再会を果たした。
 兄妹は昨日、サハリンのユジノサハリンスクに到着したという。
 7月2日にも日本に帰国し、両親の墓がある美唄市を訪れる予定だという。
 サハリンで電話取材に応じた豊子さんによると、21日夕に義照さん宅で再会を果たしたそうだ。
 最初、兄の顔が分からなかったというが、「義照兄さん」と呼びかけると、返事が返ってきたそうで、豊子さんは「胸がじーんときた」と振り返る。
 豊子さんが、通訳の助けも借りながら家族の安否や子どものころの思い出を話すと、義照さんも徐々に日本語を思い出し、「両親のお墓に手を合わせたい」「納豆や餅を食べたい」などと話しているという。
 義照さんは戦中、家族と樺太に移住し、当時の国境に近い初問(マトロソボ)という町で農業を営んでいたそうだ。
 終戦時、引き揚げる家族と別れ、父親と樺太に残ったのだという。
 2年後に父親が現地で死亡したとの連絡はあったが、義照さんの消息は分からなくなったという。
 義照さんはロシアの女性と結婚し、孫も一緒に暮らしていた。
 01年、日本政府に「旧ソ連軍の捕虜になり、シベリア抑留後そのまま残留した。一時帰国したい」と申し出ていた。
 05年春には、DNA鑑定で豊子さんと兄妹であることが確認されたという。
 豊子さんによると、義照さんの体には捕虜時代に負ったらしい無数の傷があり、当時の話はあまりしたがらないという。
 これまでに2度、義照さんの体調不良で一時帰国を延期してきた経緯があるが、今回は豊子さんが日本サハリン同胞交流協会(東京)の支援で現地を訪れ、直接説得することで、義照さんの一時帰国が実現することになったという。
 

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2006年06月24日

新宿の旧陸軍具に学校跡地にさらに人骨の予測

 東京都新宿区戸山で17年前、頭蓋骨などの人骨が100体分以上発見された旧陸軍軍医学校の敷地近辺に、さらに大量の人骨が埋められている可能性が出てきたという。
 同校で看護師を務めていた女性が今年、「進駐軍に見つからないよう人体標本を3カ所に埋めた」と初めて具体的に証言し、川崎厚労相に昨日に面会して、その事実を伝えたという。
 人骨には、日本兵の戦死体に加え、対戦国人の遺体も含まれているとみられるという。
 厚労省は同地区を発掘調査する方針だとしている。
 証言したのは、元陸軍軍医学校に召集されて勤務していた都内在住の石井十世さん(84)で、戦争中、戦死体とみられる遺体などを解剖し、人体標本として病院内に保管していたことや、終戦後、占領米軍に見つかることを恐れた関係者が敷地に標本を埋めたことなどを市民団体メンバーに語り、厚労相にも昨日面会して証言したのだという。
 同地区では89年7月、国立予防衛生研究所(当時)の建設中、頭蓋骨、大腿骨など100体以上と見られる人骨が見つかっている。
 新宿区が鑑定を専門家に依頼し、「日本人とは異質とみられる骨が含まれる」「ドリル、のこぎりによる加工の跡がある」ことが分かったという。
 石井さんによると、この人骨が発見された場所は、当時関係者が埋めた地点の一つだという。
 その他に2カ所、人体標本を埋めた地点があり、うち1カ所は自分自身も作業を手伝った、という。
 付近には戦時中、陸軍の医療関係の施設が集中していた。戦時中、中国で細菌や毒物などの生体実験をしたとされる「七三一部隊」(関東軍防疫給水部)の日本における研究拠点もあった場所でもある。
 石井さんは「霊安室の遺体の多くには名前がなく、番号札がつけられていた。中国での戦死体ではないか。日本人以外の遺体も含まれていたように思えた」と話している。
 新たに人骨が埋められていると指摘された2カ所はいずれも国有地で、今は公務員住宅などに使われているという。
 旧陸軍軍医学校周辺では、89年に人骨が見つかった場所のほかにも人体標本が埋められたとの情報が以前からあり、厚労省が01年にまとめた調査報告書でも指摘されている。ただ、直接的な証言が乏しく、場所も特定できないことから、厚労省はこれまで発掘調査の必要はないとしていた。
 しかし、自ら人体標本を埋めるのに立ち会ったとする具体的な証言が飛び出したことで、状況は一変。川崎厚労相は自ら石井さんと面談して話を聞き、「調査」を明言した。
 新たに人骨が埋められたと指摘された土地のうち、厚労省が管理する土地はもともと公園用地として東京都に払い下げられる予定だったが、周辺の人骨騒ぎで中断していた。
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2006年06月23日

10万年前のおしゃれ

 イスラエルとアルジェリアの遺跡から出土した中心部分に穴の開いた3つの貝殻が、装飾品としては人類最古となる約10万年前のビーズとみられることが、英ロンドン大などの研究グループの調査で分かった。
 これまで見つかった最古の装飾品は、南アフリカのブロンボス洞窟から出土した約7万5000年前の貝殻ビーズとされており、それよりさらに約2万5000年古い事になる。
 貝殻の大きさは約1・5−2・0センチで、中心部に穴が開いている。
 3つのうち2つはイスラエルの遺跡で1930年代初頭に、残る1つはアルジェリアの遺跡で40年代終盤に出土し、博物館に収蔵されていたという。
 しかしおしゃれに対する意識は昔も今も変わらないようですね!
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2006年06月15日

文化庁の人的災害だった壁画の一件

 奈良県明日香村の高松塚古墳(特別史跡、7世紀末〜8世紀初め)で、防護服未着用の工事によってカビの大量発生を招いたとされる問題や国宝壁画の損傷事故について、文化庁の調査委員会(委員長=石澤良昭・上智大学長)が、背景に「庁内の無責任体制」や「担当課の連携不足」があったとする報告書案をまとめたことが関係者の話でわかった。 
 壁画の劣化原因はこれまで地球温暖化などとされてきたが、報告書案は同庁の体質自体を問題視し、劣化が「人災」であることを強く示唆しているものである。
 調査委は今日、東京都内で9回目の会合を開いて報告書案を調整し、今月下旬にも最終会合で成案をまとめる予定だ。 
 今のところ調査委には、当時の関係者個人の責任問題に強く踏み込む考えはないが、文部科学相は調査委の結論を待って関係者の処分を検討する考えを示しており、報告書完成まで曲折も予想されるというが、必ずや処分はしてほしい!。
 複数の関係者によると、報告書案は(1)庁内の「無責任体制」や「思考停止的」姿勢が適切な対応を遅らせ、カビの大量発生を招いた(2)事故などを積極的に公表する努力をしなかった(3)特別史跡の墳丘を記念物課、国宝壁画を美術学芸課がそれぞれ管理する「縦割り」が、連携不足を招いたなどと指摘した。
 また02年1月、電気スタンドの接触で損傷するなどした壁画を泥で補修した問題について、美術学芸課の主任文化財調査官(当時)が主導的役割を果たしたと認定した。
 特定の個人に権限が集中していた点を問題視し、現場の専門家に頼った管理体制の甘さを指摘した。
 損傷事故を部課長レベルの協議で非公表と決めたことについて、「隠蔽する自覚さえなかった」とし、それ自体が隠蔽体質などと批判した。

posted by ひで at 12:14| 奈良 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月10日

沖縄で戦後初の国宝認定へ

 那覇市所有の「琉球国王尚家関係資料」(計1251点)が昨日、国宝に指定された。
 同日付の官報で告示されたが、沖縄県では戦後初の国宝指定となった。
 国宝に指定されたのは、琉球王国を統治した尚家が儀式に用いた王冠や紅型衣装のほか、中国の影響下にあったことを示す記録や日本に編入される過程を記した文書などだという。
 うち一部は九州国立博物館(福岡県太宰府市)に貸し出され、展示中だが、7月8日開館する那覇市歴史博物館で同日から順次公開される予定だという。
 沖縄県教育庁文化課によると、琉球国王の居城だった首里城の正殿が戦前、国宝の指定を受けていたが、首里城は沖縄戦で焼失、1992年に復元された。
posted by ひで at 06:53| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月08日

またもや高松塚で隠蔽発覚

 奈良県明日香村の高松塚古墳(特別史跡、7世紀末〜8世紀初め)の壁画損傷事故などを調べる文化庁の調査委員会(委員長=石澤良昭・上智大学長)の第7回会合が、庁内で開かれ、当時の関係者2人から聞き取り調査をした結果、これまで記録になかった国宝壁画4カ所の補修が新たに分かった。
 石澤委員長によると、同庁主任文化財調査官だった林温・慶応大教授から6日に27枚の写真が入ったCDと説明文が文化庁に届いた。聞き取りに対し、林氏は「通常の維持管理の作業だったが、上司の美術学芸課長には補修の個所については報告しなかった」と説明したという。
 補修は02年5月22日、西壁男子群像の一番右の像の腰部分の色の消えた個所や北壁の右下の絵のない部分などに、いずれも石室近くの泥を水で溶かして塗っていた。

 

posted by ひで at 08:49| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月02日

人類最古の作物はイチジク!

 約1万1000年前のヨルダンの遺跡から見つかったイチジクが、小麦などよりも約1000年古く、人類最古の作物である可能性が高いと、ハーバード大などの研究チームが発表した。
 当時の人々は甘く、育てやすい種類を選び、枝を植えて増やしていたと推測されるという。
 これまで、イチジクの栽培は約6500年前までさかのぼるとされていたが、新石器時代初期の遺跡で出土した9つのイチジクの実を調べたところ、野生種と異なり、虫を媒介とした受粉がなくても実を付ける変種で、実も甘くて落ちにくいものだった事がわかったという。
 この変種は種を作らないため、自然のままでは繁殖できず、人間が枝を切り取って植えるなどの方法で増やす必要があるという。
 研究チームは、同種のイチジクが他の遺跡でも見つかっていることから、当時の人々がこうした変種の性質を理解し、「作物」として栽培していたと結論付けた様だ。
posted by ひで at 21:01| 奈良 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月28日

渤海の歴史をしるす石碑が返還要請受ける

 皇居の中に、中国から運ばれた一つの石碑が眠っているという。
 7〜10世紀に東北アジアにあった「渤海国」と、唐の関係を伝える史料で、日露戦争後、「戦利品」として当時の日本軍によって持ち出されたのだという。
 中国の研究者らの間でいま、この碑の公開や返還を求める声が出始めているそうだ。
 石碑は「鴻臚井碑」と呼ばれ、横3メートル、高さ1.8メートルだという。
 713年、唐が渤海国の国王に「渤海郡王」の位を授け、唐と渤海国が君臣関係を結んだことを記していて、現在の中国遼寧省旅順市に設けられたという。
 日本と直接関係のないこの碑が何故か皇居に移されたのは1908年の事だという。
 防衛研究所図書館収蔵の「明治37、38年戦役戦利品寄贈書類」などによると、海軍によって、日露戦争の激戦地だった旅順から運ばれ、戦利品として明治天皇に献上されたのだそうだ。
 それが最近になって、中国の遼寧省を中心に、碑の公開や日中の共同研究、中国への返還を求める声が出始めたという。
 遼寧省大連市の政治協商会議(市政の諮問会議に相当)では今年1月、大連大学の王禹浪教授らが石碑研究の促進を求める提案をした。王教授は「多くの人が石碑のことを知るべきだ」と話しているそうだ。
 大連日報は3月、石碑の特集記事を掲載し「国宝の返還には団結が大切だ」として返還を求める意見を紹介したという。
 さらに旅順市では石碑の展示館建設計画も浮上しているという。
 しかし日本が返還に応じてもいないこの時期に展示館等中国のいつもながらの自己中心的な発想には苦笑せざるを得ないのだが・・・。
 北京の研究者らが2004年に設立した「唐鴻臚井碑研究会」(羅哲文会長)の関係者は、「石碑研究での協力を進め、中日友好関係を発展させたい」と話し、性急な返還要求には慎重だが、研究への日本の協力は求めたいとしている様だ。
 中国側の関心の背景には、歴史的な帰属をめぐる韓国との論争があり、中国から見れば、石碑は「渤海国は唐の藩国であり、中国の歴史に位置づけられる」ことを示す物証となるのだそうだ。
 中韓両国間では、渤海国の前にこの地域にあった高句麗をめぐって激しい論争があり、昨年5月の首脳会談でも取り上げられたのだが、石碑は高句麗論争の有力な材料にもなりうる、というわけだろう。
 関係者によると、やはり日露戦争後に朝鮮半島から日本に持ち去られ、靖国神社に置かれていた「北関大捷碑」が、今年3月に北朝鮮に返還されたことも、今回の動きを刺激しているという。
 渤海史を専門とし、1999年に石碑を紹介する論文を発表した国学院大栃木短大の酒寄雅志教授は、「渤海という国ができた当時を考えるかけがえのない史料だ。皇居の奥深くしまい込んでおかないで、まずは開放・公開してほしい」と語っているというのだが・・・。
 宮内庁によると、石碑は現在も「国有財産」として皇居内の吹上御苑で保管されているそうで、立ち入り規制があり、写真の提供に応じることはあるものの、公開はしていないという。
 返還などを求める動きについては、「そういう報道には接していない」としている。

posted by ひで at 14:41| 奈良 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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